![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156127537/rectangle_large_type_2_557eb1c3bb5de6c6b2a681e24506ca75.png?width=1200)
村上靖彦「客観性の落とし穴」
「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」
この言葉に興味を持って、この本を買うことにした方は少なくないのではないかな、と想像しています。私もその一人です。
どちらかといえば、私は感性で決めてしまう人間です。要は、好きか嫌いか。
仕事もそうです。あまりよくないのかもしれませんが。
本音を言ってしまえば、好きか嫌いか、面白ろさを発掘できるかできないか、あるいは、やるべきと感じるかどうかで仕事をしています。
でも私は社長ではないので、説明できなければいけません。
そこで登場するのが客観性です。
ということで、私の職場である行政の分野にも、EBPMなんて言葉が使われるようになりました。
今は障害福祉の分野にいるので、いろいろデータを集めては客観的に考えていこうとしています。
でもものすごく難しいのです。
なぜなら、障害福祉とひとくくりにいっても、重度の方、軽度の方、そもそも種別も、身体障がい、知的障がい、精神障がい、発達障がいとあります。身体障がいの中にも、視覚、聴覚、上肢、下肢、体幹、内部機能障害など様々あります。
これらを全て統計的に分析するのは、困難だな、と思っていました。細かく分ければ理解しにくくなるし、ざっくりまとめようとすると、脳血管疾患で肢体不自由になった高齢者が大多数を占めている中でだいぶ偏ったデータになりがちで、これが本質なんだろうかともやもやします。
なので、
「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」
という言葉を起点にしたこの本は、きっと、本当に客観性は正義なのだろうか、という話が続くのだろうと思い、読んでみたいと思いました。
この本では第1章、第2章で、客観性という発想が生まれ、自然の探求と同一視されるにいたった歴史を振り返り、さらに、自然だけではなく、社会や心理までもが客観的に考えられるようになり、それにともなって現代社会に生じた帰結を考えています。
第3章では、数値による測定の誕生と、真理が数値で表されると考えられるようになった歴史を振り返ります。その結果として、序列と競争が社会のルールになっていく経緯について、第4章で示しています。
後半では、数値を絶対視し、「客観的な妥当性はあるのですか?」と言わしめる状況から離れた時、どのように考えればよいかについて、考えています。
第5章では、一人一人の経験の重さを重視するために、「語り」の受け取りを体験します。続いて第6章では、がん患者の手記などを取り上げながら、偶然性とリズムという視点で語りの分析を行っています。
第7章と第8章では、一人ひとりの視点から経験を解き明かす考え方としての「現象学」を紹介し、顔が見える関係から社会を作っていく可能性について考えています。
実は、この本を読みたいと思ったもう一つの理由は、だいぶここのところ、障害福祉や障がい者雇用の本ばかり読んできてしまったので、少し違う本を読みたい、と考えたことがきっかけでした。
一方で、障がい福祉について考える上で、統計分析ではくくれない障がいの多様性にぶちあたっていたので、何かヒントが得られるかもと思ったこともありました。
ところが、本の中では、障がいの話が何回か取り上げられていて、ちょっと驚きでした。
最初の方でこんな言葉も登場します。
「誰でも幸せになる権利があると言うが、障害者は不幸だと思う」
まさに、数値や序列に重きを置いたゆえの発言ということで、紹介されています。
おそらくこの言葉は、障がいを持たない人、あるいは、障がい者とあまり接したことのない方の発言だと思います。分からないから、身体や知的な機能に「障害」がある、つまり、人よりも劣るという思い込みから、幸福かどうかを序列で決めて、不幸という結論にしてしまっているということなのだと思います。
では、あなたは本当に幸せなのですか、と尋ねてみたいものです。
本書の最後で、このように著者は提案しています。
一人ひとりの顔と声から出発して社会を作ること、そのような社会をモデルとして大きな制度を考えること、ヒントは、西成のように困難が集積した地域にこそあるのではないか。というのは、そこでは制度的な支援だけでは生存と安全を保障できないがゆえに、目の前にいる一人ひとりの顔と声を起点としてコミュニティを作ってきたからだ。このような小さな場所こそが、すべての人の生存と尊厳が保証されるような社会であり、来るべき社会制度のモデルなのではないだろうか。そして一人ひとりの声を聴きとり解きほぐしていく現象学は、このような小さな相互ケアの社会の生成を模倣するとともに、このようなコミュニティを解き明かす役割を担いうる。
制度といっても、必ずしも行政が組み立てるものばかりではないですが、仮に行政が制度構築することを前提として考えた時に、最少の経費で最大の効果を上げなければいけない、つまり効率性を重んじようとすると、どこに力を入れればよいかは、やはり客観的に考えることになると思います。
しかし一方で、誰一人取り残さない、といったことが求められたりします。もし本当に、今困っている全ての人を何らかの形で救おうとしたら、行政はパンクしてしまうのではないかと思います。
もしかしたら、あらゆる人を救わなければいけないということではなく、その他の仕組みで救える人は救い、とりあえず目の前にいる人を他の地域資源につなぐことができなければ、自らが救い、誰一人取り残さないに近付けるということに意味があるのかもしれません。
コミュニティが来るべきの社会制度のモデル、というのはそういうことで、目の前の人を救わなければいけないというスタンスが、社会の在り方を決めていくのかな、そういう意味なのかな、と理解しました。
こうなんだ、と答えが見つかったわけではないですが、日々迷いながら、仕事に取り組んでいきたいと思います。