文学性が高いと難解に感じる理由
【約1800字/4.5分で読めます】
映画『大人は判ってくれない』『ヴィレッジ』、小説『三四郎』を取り上げて、それらの作品から「純文学的な生き方」を考えました。
この記事では、『大人は判ってくれない』『三四郎』を鑑賞して感じた、共通する物語の展開の特徴を書いてみます。
『大人は判ってくれない』『三四郎』の二つに共通するのは、物語の展開において前後の結びつきが弱いという点です。
なぜ、ここで『ヴィレッジ』だけがそこから漏れたのかを説明しておきましょう。
前の記事で、この三作品の主人公が「甚だぼんやりしたイメージ」「まだ生きる目的が見つかっていない」と書きました。
ただ、この中で『ヴィレッジ』の主人公だけが、目的らしいものがあるとも言えるんですよね。
それは彼が「親の借金地獄から解放される」ことです。
そこを乗り越えなければ、本当の意味での彼の人生がはじまらないので、彼はそうなるように、仕事を頑張るわけですね。
作中では、地獄のような世界から抜け出せるように手を貸してくれる女性も現れ、大きな転機となりました。
そういう意味では『ヴィレッジ』だけが、主人公の目的のようなものが見える作品でした(しかし、それが簡単には実らないところが『ヴィレッジ』の「文学的」な部分)。
『大人は判ってくれない』『三四郎』のニ作品は、年齢こそ違いますが、いずれも学生が主人公なんですね。
ですから、将来どうするとか、自分がこの道で生きていくというのは、特に決まっていません。
だからこそ、主人公たちの行動に一貫性がない部分もあるんです。
この一貫性のなさが、物語の展開のつながりを薄くしています。
誤解のないように言っておくと、これは決してネガティブな意味で言っているのではないんです。
「文学的」=「物語のおもしろさを重視しない」ということだと思うんですよね。
『大人は判ってくれない』と『三四郎』で、もう一つ共通しているのは、作者自身の経験がモチーフになっているところです。
『大人は判ってくれない』にいたっては「半自伝的作品」とまで言われるくらい、作者の人生経験が詰め込まれています。
そうすると、物語の展開がどうなるのかというと、やはり「一貫性」が薄くなるんですね。
私たちの日頃の生活を振り返ってみても、そういう面がないでしょうか。
毎日、学校や職場に行き「学生」や「ビジネスマン」としての「顔」があり、家では「家庭」の「顔」がありますよね。
その間に友達と会えば、「友人」に対する「顔」もあるでしょう。
私たちは一貫性があるようでないような生活を送っているのが、実際のところだと思うんです。
なので、実体験を多く盛り込んで作品を作ると、シーンとシーンのつながりが今いちわかりにくいものになるんですね。
そういうこともあって『大人は判ってくれない』『三四郎』は、シーンとシーンのつながりが稀薄なイメージです。
また、どちらの主人公も、まだ自分の人生のゴールを見つけていないんですから、物語の展開が一つの結末に向って動くわけはないですよね。
もう少しわかりやすく言うと、一番わかりやすいストーリー展開は、おとぎ話などのファンタジーですかね。
ゲームに出てくるようなわかりやすいファンタジーでは、主人公がいて、味方がいて、敵がいて、その敵をやっつけるのが主人公のゴールとなります。
そうなると、進むべき道は一本道で、ストーリー展開もわかりやすくなるでしょう。
多少、寄り道がある場合もあるかもしれませんが、そんなに突拍子もない展開は出てきません。
どちらにリアリティーを感じるかと言えば、『大人は判ってくれない』や『三四郎』の方なんですが、わかりやすいものに慣れてしまった人には難しい作品に感じるでしょう。
ただ、個人的には、こういう文学性の高い作品のおもしろさもわかった方が、得なような気がします。
私も若い頃は、こういうものがよくわかりませんでした。
たぶん、その頃の私は自分の人生の「目的」がはっきりしていて、進むべき道が見えていたのでしょう。
そういう人はなかなかよそ見ができないものですから、こういうおもしろさがよくわからなかったりもします。
今の私はこういうおもしろさもわかるので、結果的には「目的」を見失って良かったです(笑)
その方が人生の幅が広がるからです。