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「自分を大切にしない人を、大切にしなくていい」って本当?

「大切にしなくていい」という言葉ってちょっと怖い……

伝えたいことはわかるんだけど、ちょっとその言葉は「引き寄せの法則的にはどうなの? という話です。編集ライターという職業病で「言葉のチョイス」へのツッコミです(笑)。

「自分を大切にしない人を、大切にしなくていい」と書いている人をよく見かけます。HSP的感性では、これってちょっとした棘を感じる言葉なんです。引っかかりを感じてしまうのです。
 
「大切にしなくていい人」なんて、いるのでしょうか。
  
もちろん、書き手が言いたいことはわかります。
 
自分を粗末に扱う横暴な人のスケジュールに振り回されたり、支えてあげたり、言いなりになったりしなくていいよ、という意味ですよね。

それって
「大切にしなくていい」 ではなく
「大切にする必要はない」 という言葉のほうが想いに近いのではないでしょうか。

「大切にしなくていい」という言い方では、相手になにをしてもいいような印象に聞こえてしまう(人によると思います。私の主観です)。

そうなると、顔の見えないところでは特に「批判」や「攻撃」のような行動に切り替わってしまうことも増えそうな気がしてしまうのです。

「大切にしなくていい」という考えは、自分のことを守る「防御」の考え。自分を守ることはたしかに大切なことですよね。

でも、「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、守ろうという気持ちが勢い余って「攻撃」に転じることもあるのではないでしょうか。

それはそれで、心の平和から遠ざかり、いつかは自分の身を滅ぼすことになってしまうのではないでしょうか。
 

「〜する必要がない」

「しなくていい」
は、言葉のエネルギーとしては大きく異なります。
私は、そう感じます。


「大切にする必要がない」の、その先へ

さらに、心理を探求するものとして、また、坐禅修行をしている者として、その考えは、まだ途中過程であると伝えたいのです。
  
流れを書いてみると、
   

①相手に必要とされたくて振り回される

↓ ↓ ↓

②自分を大切にしてくれない人を大切にする必要はないと気づく

↓ ↓ ↓

③自分が愛を与えたい相手に
自分の身を滅ぼさない範囲で与えて

その結果「相手がどう思うか」については手放す


  
   
という流れで、人の「心」は変容し成長していくのではないでしょうか。
 
「NO」と言える大切さ。
それも重要ですが、それだけでは「戦い」になってしまう。

「戦争反対デモ」や昔の「学生運動」に通じる、大切なことを伝えようとしているはずなのに、なんだか勢い余って別の攻撃部隊に変化しちゃうような。

その先に待っているであろう、安寧の「境地」……「結果を手放す」を目指して、周囲を燃やす大きな炎ではなく温かいゆらめく炎へと、変容していかれることを、私は静かに祈りたいと思っています。


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