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人生で取り返しのつかない最大の出来事

4月某日、母方の祖母の命日だった。祖母は私が小4の時に亡くなった。この先も祖母が亡くなった日の絶望を忘れることはない。忘れてもいけない。

思い返せば、祖母はいつも自分のことより家族の身を案ずる方だった。孫の中で家が一番近所だったこともあってか、祖父母は私のことを一番可愛がってくれていた。特に祖母は娘(私の母)が至らないことをよく分かっていたせいか、日常的に私のことを気にかけてくれた。私もそんな祖母が大好きだった。
祖母は母と違って丁寧に美味しいご飯を作ってくれたり、一緒に犬の散歩に行ったり、私や母が具合が悪い時は家に様子を見に来てお世話をしてくれた。祖母がいた頃は、母が頼りなくても「ばーちゃんがいるから」という安心感があった。だがその安心はある日突然終わりを告げられた。

私が小3のある時期、祖母の体調に異変が起こった。白目が異常に黄色かった。当時の自分には分からないが、今なら分かる。黄疸症状だ。母を含む娘たちは急いで祖母を大きな病院に診せた。母を含む大人たちが医師から検査結果を聞き終えて病院のロビーにでた直後だった。うちの母が号泣し出した。母だけでなく娘全員号泣し、私は呆然と立ち尽くした。隣にいた2つ年上の従兄弟が力無い声で私に耳打ちした。
「ばーちゃん、もう長くないんだよ……」
私は目の前が真っ暗になった。

後日、落ち着きを取り戻した母から
「ばーちゃんは末期ガンで、後1年くらいしか生きられない」
と告げられた。信じられなかったし信じたくなかった。今病室でこうやって楽しく会話したりお菓子食べたりしてるじゃないか。しかし母もそんなバカげた嘘はつかない。日が経つにつれて私は現実を思い知ることになった。
祖母は自律歩行ができなくなって移動が車椅子になり、車椅子から寝たきりになり、最終的には体のあちこちに管を通され『生かされている』状態になった。ガンが全身に転移していたのだ。
そんな祖母の一大事に私は何をしていたのか。病室の外でゲームボーイをしていた。現実逃避をしていたのだ。
「こんなことしてる場合じゃない、少しでも長くばーちゃんと一緒にいないと」
頭では理解していたが、祖母に訪れる死の恐怖から私は逃げ回っていた。
「次こそは長く一緒にいよう」
そんなことばかり繰り返していた。『明日やろうはバカ野郎』という言葉を耳にしたことがあるが、まさしくその通りだったと思う。私は大馬鹿者だった。

大馬鹿者の私にとうとう天罰が下る日が来た。祖母が亡くなった日だ。
朝小学校に行く準備をしている時、親戚から
「(祖母が)危篤だから早く来て」
という電話が来た。私はランドセルを持ち上げる気力も無くなった。
家族揃って急いで病院に向かうと、最期の別れに間に合わせるために強心剤を打たれ『無理やり生かされている』祖母を目の当たりにした。その時、私はようやく自分の罪深さを思い知った。取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
私は祖母の手を握って号泣した。泣きながらワーワー喚いていた。何を喚いていたかはあまり思い出せないが、「ごめんなさい」と言った記憶はある。最期の祖母の表情は笑顔だった。祖母が笑顔を見せたのは泣いている私を元気付けようとしてくれたんだと思う。しかしその優しさすら辛すぎて、人生で初めて「死にたい」と思った。

絶望のあの日から気が付けば20年以上経っていた。
祖母の件で私が学んだことといえば、
「人間はいつでもやり直せる、なんて考えは甘い」
ということだった。
物事も人もいつ終わりが訪れるか分からない。「明日でいいや」「今度やればいい」なんていう怠惰な心持ちは、いずれ後悔することになる。思い立ったらすぐ行動しないといけない。何事にも絶対などない。過度な安心は甘えだ。

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