西東三鬼の写生
『ホトトギス』派の人たちとは違う三鬼の写生する姿は、写生というより、凝視であり、凝視である以上に瞑想、そして結局は想像なのだと思える。まず蓮を見つめることで夢が成立し、そこから写生が生まれる。枯蓮がなにか枯れたものどもの比喩で、それがみなおなじように動くというのも自戒のような比喩にはちがないが、それ以上にこのイメージは三鬼の想像力が腕をのばす社会性と俳句の「写生」なるものとの交点をよく照らすように思える。だからこの「枯蓮」の隠喩は、なにかを喩えるよりも、そこに現前する池の蓮の風景のなかにはらまれた意匠を喚起するのである。
暗く暑く大群集と花火待つ
という句もある。三鬼が見つめているものが「群集の孤独」だと言ってしまっては、イメージが枯れてしまう。そうではなく、ここには根源的な生の、群れることと単独であることの対立と融和の矛盾がイメージ化されているのだ。そしてそこにまつわる情動は、すくなくとも陽性のものではない。どこかに滑稽なほどの悲しみが纏綿するのは、三鬼におどけの表情があるからだ。
火のなかのべんがら色の三鬼の忌
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