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どんな立派な「自分軸」も、車にぶつかったら終わりだ

日課である朝の散歩の途中、折り返し地点にある公園のベンチで、noteの記事を読んでいた。スマホの画面を見ながら、今朝は「自分軸」に関する記事を多く読んでいた。
 
ふと、「どんなに立派な『自分軸』を打ち立てても、車にぶつかったら終わりなのにな」という考えが浮かんだ。つまり、その瞬間に、今までの努力も何も、すべてなくなってしまうということだ。
 
社会学者のニクラス・ルーマンは、社会の自己組織化の主体は、つまり、社会において進化するものは「コミュニケーション」だと言った。そして、人間はその「環境」に過ぎないと規定した。
 
コミュニケーションとは、情報のやり取り、個と個の関係性およびネットワーク、その中で移動する情報そのものだと言っていいだろう。
 
これって、生成AIの仕組みそのものではないだろうか?
 
人間は、痛み、悲しみ、葛藤などを通して自己成長する生き物だ。それを内省と呼んだり、リフレクションと呼んだりしているわけだが、いずれにせよ、そのような自己フィードバックシステムを持っている。
 
それに対し、そういった感情、つまり、内側にメタ思考のループを持てないAIは、すべて外部からのインプットを更新していくしかない。ということは、AIにとっての「環境」とは、情報を発信してくれる「人間」しかいない。ルーマンの言う通りだ。
 
それでも、「環境を整えることは大事」と言って、自己収斂して自分軸を固めていくのはよいが、進化の主体からすると、魚群の中の一匹のスイミーがどのように生きたいかを考え、懸命に泳いでいる姿として映るはずだ。
 
「環境」が「環境」の中だけで努力することには限界がある。ということは、もし何らかの自己実現を望むのであれば、「コミュニケーション」を無視したらどうにもならない。つまり、自分の周りのコミュニケーションを活性化させることこそが重要なのだ。対人関係の充実、コミュニティやネットワークへの関与、メディアへのアウトプットなど、コミュニケーションに力を入れる必要がある。
 
小説や伝記などもそうだが、基本的に「生きた結果」は、メディアの形でしか残らない。
 
例えば、3000年前の縄文土器を作った縄文人のことを思い浮かべてみよう。それを作った人は、個人ではなく、縄文人という集団に所属する人物として理解される。その代わり、その人物の想いは縄文土器という一種のメディアの形で半永久的に残すことができた。もし自己実現を語るなら、3000年先に自分の仕事を残せたことをおいて、なにを自己実現と言うのだろう。
 

最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。