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宮台真司さんのオススメ本、マルティン・ブーバー著「我と汝」を読んだので感想。
マルティン・ブーバー著「我と汝」を読んだ、きっかけはYouTubeで社会学者の宮台真司さんが「我と汝」を紹介していたこと。
宮台さんは著名な社会学者で、政治経済や哲学、性愛に関するものから生き方指南まで、多くの考えを様々なメディアで発信されていて、自分も時折参考にさせてもらっている。「我と汝」はその宮台さんがかなり影響を受けた本らしく、内容が気になったからだ。
「我と汝」の著者、マルティン・ブーバーはユダヤ人の思想家で1878年にオーストリアで産まれる。ドイツ神秘主義思想やユダヤ教のカバラやハシディズムという神秘思想から影響を受けたそうで、聖書のドイツ語訳もしており、大学では比較宗教学や社会哲学を教えていた。詳しいことはよくわからないのだけれど、神と人間の関係について深く考えた人らしい。
で、肝心の「我と汝」なのだけれど、すごく簡単に説明するなら「どうすれば人は神との関係性を内在化することができるか?」ということがまとめられた本だと思う。
神との関係性?と言われても無神論者にはよくわからないし日常生きることと何の関係もないのでは?ということになりそうだけれど、ブーバーはそうした関係性を築くことができなければ亡霊のように生きていくしかなく、現代人の生きずらさの原因はまさにそこにあると言っている。
なぜそうなるのか?ブーバーはまず、人は世界に対して二つのことなった態度をとっていて、二つの世界があるという。
世界1〈われ〉ー〈それ〉経験の世界
世界2〈われ〉ー〈なんじ〉関係の世界
まず、〈それ〉とは人が経験によって概念として認識する世界だ、社会、思想、物、人、お金、などこの世界にあるあらゆるものを人は”経験”することで概念として認識している。ただそれは「自己のうちで」おこなわれることであって「人と世界とのあいだ」でおこなわれることではない。
〈なんじ〉とは「人と世界のとあいだ」の関係性の中に現れる世界だ。それは”出会う”ことによって「今、ここ」に立ち現れるもので、過去の経験によって概念化することはできないし、言語によって表せるものでもない。
例えば母が我が子を愛おしいと思うのは”経験”によって「赤ん坊は大人が守らないと生きていけない」と認識しているからではなく、我が子との”関係”のあいだに愛おしさが自然と湧き上がってくるからで、ブーバーは「愛とは〈われ〉と〈なんじ〉の間にあるもの」と言っている。それは相互に関係し合っていて自己完結的なものではない。
芸術も芸術家と世界とのあいだに産まれるもので、言葉にできない感情を音楽や絵画として残そうとした結果生まれるものだ。彫刻家のミケランジェロは彫刻を掘る理由に「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、自由にしてくれと私に話しかけているから」と言ったそうだけれど、これもミケランジェロと石との”関係”性を表した言葉だと思う。
また、宮台さんは〈それ〉=入れ替え可能〈なんじ〉=入れ替え不可能。という風にも説明している。
産業革命後、資本主義社会の中で労働者は資本主義を回す歯車として入れ替え可能でなくてはならず、次第に〈それ〉として扱われることになる。その後、情報化社会が発展した現在では〈それ〉の世界はより拡大し、SNSや出会い系アプリによって友人や恋人であっても入れ替え可能な〈それ〉として扱われつつある。
他者が入れ替え可能であるならば当然”自分”も入れ替え可能であり、その結果、仕事でも恋愛でも「これって自分じゃなくてもよくね?」という不安が付き纏うようになったわけです。これが冒頭で話した現代人が亡霊のように生きていく理由で、つまり〈われ〉ー〈それ〉の世界から〈われ〉ー〈なんじ〉の世界に移行しなければ現代社会に生きる不全感、孤独感は拭えない、ということなんです。
さて、ブーバーは〈なんじ〉の世界はずっと続くものではなく〈それ〉との間でシーソーのように入れ替わるもの、とも言っています。
例えば、美しい風景を見て言いようのないほど心が動かされることがあると思うのですが、それは一瞬のことでずっと続くことはありません。日の出前の薄明かりに包まれたわずかな時間のことをマジックアワーと呼ぶのですが、その淡い赤色でキラキラと輝く美しい光景のように一瞬だけ現れる、そんな感じです。
〈なんじ〉の世界は関係によって成り立っているので、その”関係”が崩れると〈それ〉の世界に変わってしまいます。ただ、逆も然りで、〈それ〉の世界から〈なんじ〉の世界に変わることもあります。「世界に一つだけの花」という歌がありますが、人はきっかけと関係性さえあれば多くの花の中から自分だけの花〈なんじ〉と出会う力も持っているのです。
そんな不安定に揺れ動く〈それ〉と〈なんじ〉の世界なのですが、ブーバーは第三の可能性として。
〈永遠のなんじ〉
という概念を提示します。これが冒頭で言っていた「どうすれば人は神との関係性を内在化することができるか?」というところに戻ってくる概念なんです。
それぞれの個別の〈われ〉ー〈なんじ〉の関係を延長して行ってずーっと伸ばしていくと皆一つの場所に辿り着く、それが〈永遠のなんじ〉であり”神”であるということです。
確かに美しい光景を見たり、人を愛する気持ちが湧き上がってくる時など神秘的な出来事だと感じることがありますが、それを突き詰めると信仰心に辿り着くというのは面白い考え方だなと思います。これが宗教学を学んできたブーバーが神との関係がどのようにできているのかと考え続けた結果導き出した答えなんです。
そう考えると、現代人は〈それ〉の世界の中で入れ替え可能なそれとして扱われることで生きずらさを感じている。だから〈なんじ〉の世界と関係しなければならない。でも〈なんじ〉の世界は”出会う”もので求めれば手に入るものではなく、また、ずっと続くものではない、つまりどうすればいいのかわからない。それなら大元である〈永遠のなんじ〉神との関係、信仰について考えてみるのはどうだろうか?ということも言えそうです。
僕自身神を信じているか?と言われると”神”に対して応答するとはどういう感覚なのかよくわからないのが本音なのですが、自然と向き合っているときは人間の人智を超えた大きな存在があるような、そんな神秘的な感覚になる時があります。例えば屋久島にある屋久杉は樹齢7000年だそうですが、もし屋久杉と向き合ったらその壮大さに祈りを捧げたくなるのではないかと思います。そのような感覚と近いものが”神”に祈るような信仰心に繋がるのかしら?とも思うのです。
とりあえず今回はこの辺で、最後にマイナーな曲なのですが〈われ〉ー〈なんじ〉の関係をよく表している歌詞だと思うので、田辺マモルの「永遠の光」という曲を貼っておきます。よければご視聴ください。