パンとスープとねこ日和
大人になってから見つけた趣味の一つに、映画鑑賞がある。
とは言っても、映画館に行くのは年に1〜2回でどうしてもみたいものがある時だけ。
そもそもわたし、「新しいもの」にあまり興味が強い方ではなくて、しみじみ好みのものを探すのが好きなタイプ。何事にも。
そんなこともあって、普段は根っから家で動画配信サイトを見ている。
というか、Amazonプライムビデオばかり見ている。理由は簡単。夫がアマゾンのヘビーユーザーだから。
いつでもトイレへ行ける気軽さで、コーヒーをたずさえ、クッションを膝に乗せ、一番のポジションで画面にかぶりついている。
そんなわけで、『パンとスープとネコ日和』を見た。
これは映画ではなくて、2013年のドラマ。
思い返してみると、この頃のわたしは結婚が決まってその準備と、論文の制作と、毎日の仕事で猛烈に走り回っていた。もう、毎日がめちゃくちゃでヘトヘトだった。
ドラマの中で折りたたみ携帯が出てきて、まだ折りたたみ携帯が珍しくなかった頃なのだなと納得した。
そんな状況だったので、このドラマの存在は全く知らず、なぜこれをみようと思ったかというと名前と主演が小林聡美さんというところ。
「めがね」も「かもめ食堂」も好きだし、そもそもこの方の雰囲気がとても好き。もたいまさこさんも出ているし、もう間違いないよね。という気持ち。
物語は、小林聡美さん演じるアキコさんのお母さんが亡くなるところから始まる。お母さんはひとりで食堂を営んでいて、営業中に倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまう。
アキコさんは出版社で編集の仕事をしているのだけれど、そんな中、会社から部署移動の打診をされる。本を作る仕事に情熱を持っているアキコさんにとって、それは受け入れ難く、辞職を決意。
ちょうど閉めたままになっていたお母さんのお店の存在と、背中を押してくれる人の存在、それから見守ってくれる先輩たちの力を借りて、アキコさんはお店を開く。
わたしがあらすじにしてしまうと、どうにもつまらない。
けれど、とても印象的なのがお母さんの存在だ。
お母さんは本当に冒頭で亡くなってしまい、遺影以外には姿が全く出てこない。回想シーンもない。だから、見ている人が抱くお母さんに関するイメージは、完全にキャラクターたちの発言で構成されていく。
そんな漠然とした「お母さん」だけれど、この物語の中では本当に大きな存在感を放っている。
物語の中には、何組か「母娘」が出てくる。
娘の食事に強いこだわりを持って無農薬野菜だけを食べさせようとする母と、待ったを聞かずサンドイッチにかぶりつく幼い娘。
間も無く出産を控えるが母のような母になれないと悩む妊婦さん。この妊婦さんのお母さんは、「褒めるのも叱るのもシンプル」で「好き」な存在。
認知症なのだろうか、ぼんやりと反応の乏しいご婦人と、その娘と孫らしい三人組。
他にも、具体的なエピソードは描かれないものの、親子らしい組み合わせのお客さんは何組も訪れている。
アキコさんはどの誰も否定しない。
サンドイッチから減農薬野菜を残して無農薬野菜だけを娘に食べさせようとするお母さんをじっと見守り、「子どもを育てるっていうのは、それくらい神経質になるんだよ」と受け入れる。
サンドイッチという完成された料理を分解して具材を残すなんて、な気分だけれど、作った本人のアキコさんが否定しない。
すると見えてくるのは、やたらに無農薬にこだわるエキセントリックな女ではなく、ただ本人なりに娘を愛する母の姿だ。
娘に「残して食べて」とはいうけれど、お店に「減農薬野菜を使わないで」とは言わない女性の姿だ。
「自分は娘に農薬を使った食材を食べさせたくない。けれど、店で使う材料を否定したり、料理そのものを否定したり、他人に押し付ける気はない」という姿勢が見える。
勝手な人に見えていた女性が、そうではなくただ育児に必死な母になる。
もうひとり、出産を控えながらも「母のようなお母さんになる自信がない」という女性とのエピソードも良かった。
この女性の気持ちは、きっと多くの妊婦が出産前に抱く気持ちなのではないかと思う。というのも、わたしも全く同じ気持ちだったからだ。
ドラマの妊婦さんのように、母を素晴らしい母とは思っていないのだけれど(ごめんね、お母さん)、それでも「いいお母さんになる自信がない」とずっと思っていた。今も思っている。
そんな彼女にアキコさんがいうのは「あなたが『お母さん』のパイオニアになればいいんですよ」というひとこと。「お母さんとあなたは別の人間なんだから」と。
「『お母さん』のパイオニア」とは、なんたること!
きっと誰もが抱いている、「理想のお母さん」。それを目指そうとするのではなくて、自分が「自分らしいお母さん」になればいい。
むしろ、わたし自身にそう言われたような気がした。
「あなたは十分立派なお母さんだよ」
「あなたなりにがんばればいいんだよ」
こんな台詞は、最近いろんな場所で目にするようになった。けれど、それとは違う質量の台詞。
基準を外に作るのではなくて、良し悪しの基準や頑張りの尺度を「何か」に求めないで、自分で決める。お母さんのパイオニアは、とても大変だろうけれど、強くしなやか。
そしてそれは、無農薬野菜のお母さんにも何か通じる。
表題の「かしこく、やさしく、いさぎよく」は、アルバイトのしまちゃんがおばあさんから子どもの頃言われてきた言葉。
しまちゃんと弟の頭を撫でながら、「かしこくなりなさい、やさしくなりなさい、いさぎよくなりなさい」と何度も言い聞かせたおばあさん。
「かしこく、やさしく」まではよくあるかもしれないけれど、「いさぎよく」というのはまたすごい。
「いさぎよい」とは、どういうことだろう。
「いさぎよい」《形》澄み切った感じで、すがすがしい。特に態度が、未練げもなく、さっぱりしている。
こうなってくると、最初の「かしこく」も「頭が切れて利口」というよりも、「賢明である」という意味合いで捉えるほうがあっている気がする。
「賢明で正しく、優しく、いざというときには清々しく未練を引き摺らない」
そんな美しさをアキコさんは持っている。
自分の今歩むべき道をしっかりと見定めて、やりたいことやりたくないことにはっきり線を引く賢明さ。
どの客にも、向かいの「口が悪い」喫茶店店主にも、しまちゃんにも、誰にも。べったり甘やかすのではなく、きちんと見える距離を保った優しさ。
これまでの道に区切りをつける時、お母さんのお店を引き継ぐ時、「不思議な親子だね」と言われるほど切り替えたいさぎよさ。
先にも書いたけれど、この物語ではアキコさんのお母さんは明らかにキーパーソンとして存在するのに、姿は遺影にしか出てこない。遺影もはっきり正面から映されるシーンはほとんどない。
物語の始めの頃、アキコさんとお母さんの間があまりにもあっさりしていることや、アキコさんに親を失った憂などがないことで、親子関係がうまくいっていなかったのかと感じてしまう。
ところが終盤になるにつれ、確実にそのお母さんからアキコさんに伝えられたり引き継がれたりした部分が現れる。
何か明確なエピソードや言葉がなくても、お母さんがアキコさんを愛していたことや、形はなくても絆があったことが伝わってくる。それは明文化されていないけれど、伝わってくるのだ。
なんの気なく見始めたけれど、思わず全3話を一気に見てしまった。
少なくともわたしは、この物語に母として娘として相当に慰められ勇気づけられたし、また見返したいと思う。
それにしても、食べ物が美味しそうすぎる。
「幸せのパン」でも感じたけれど、食べ物というのはその場面の心情をあまりにもはっきり描き出すんだなあ。
表面がバリッとしたフランスパン、湯気がふうわふうわしている色鮮やかなスープ、カラフルなカップに入ったコーヒー。もしくはグラスが汗をかくようなお水。
楽しい気持ち、切ない気持ち、いらいら、幸せ。
食べている描写で、言葉がなくても伝わってくるからすごい。
食ってすごい。