詩という子ども
ずっとずっとあたためてきたものを、世に送り出す日。
今年も子どもたちのお誕生日に「詩」をつくるラッシュがやってきました。
もう三年目となれば、贈られる方も慣れてくるようで(贈る方はいつまでも慣れないけど)、特に目立ったリアクションは返ってきません。
これでよかったのかどうか、相変わらず悶々としております。
「産みの苦しみ」という言葉がありますが、それは孕んでいるうちのことであり、いざ産まれようとする時のことであり、全身全霊であるからこそ、産んだあとのことも含まれてくるんですね〜。
せめて、自分だけは自分をねぎらってやらなくては。そして、次の「お産」への力を蓄えるのだ!
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詩というものの性質上、最初はよくわからなかったものが、何度かくり返すうちにやっと味がしてくる、ということがままあります。
「味がするところまで、しっかり意を注ぐ。」
「ことばの音や響きと一つになる。」
「自分のものを、みんなのものにしていく。」
そんな姿勢を一年かけて培っていくことこそ、この贈り物の真価なのかもしれません。この姿勢さえあれば、きっとどんな人や物事にも深く関わっていけます。
「わからない」を抱えられる人になってほしいです。「わからない」を遠ざけるだけで終わってほしくはないです。
だから、わたしもこの「わからない」時期を積極的に抱えます。
抱えた先の景色を一緒に見ようじゃないか〜。
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さて、「産みの苦しみ」といえば。この間、三年生の授業で、アダムとイヴの「楽園追放」の物語を話す機会がありました。
二人は誘惑に負けて、善悪のわかる知恵の実を食べてしまったので、その罰として、労働や産みの苦しみ、「死」が与えられるようになりました。
それから人間は、単に恵を与えられるだけの存在ではなくなり、この世界が持続するように、世界へ働き返す(つくりだす)ことも同時に求められるようになりました。
ここからは、何の専門家でもない、一個人の感想として聞いてほしいのですが、わたしはこの「苦しみ」を体験できる存在で、「働き返し」を求められる世界の住人でよかったな〜と思います。
いま自分が手にしているものの背景を、想像したり、思いやったりできるからです。ただ与られるだけだったら、そのありがたみを素通りしてしまっていたかもしれません。受け身なだけだったら、喜びもそれなりだったかもしれません。なんなら、与えられるものにケチをつけていたかもしれません。
わたしは、痛みや苦しみを覚えてやっと、人に優しくしようと思えている気がします。
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「痛み」「苦しみ」というと、「お金は苦労の対価である」「努力しないと幸せになれない」とか、なんだかネガティブな固定観念につながってしまいそうですが、これはあくまで物語で、何かの象徴ですから、もっと広やかに捉えていきたいです。
例えば、プロセスをとること、エネルギーを支払うこと、能動的であること等等。必ずしも行動を問題にしなくても、瞑想や祈りだっていいと思います。
汗水なのか、手のぬくもりなのか、愛なのか感謝なのか。それはそのときの自分次第ですね。とにかく、あたたかいものを流そう、残そうという心がけです。
痛いとき、苦しいときはお先が真っ暗なので、むしろそれを武器にして誰かを傷つけることに使ってしまいますが。そういう失敗も繰り返しながら、辛いときこそ「お先」や後に続く人に目が向くように、訓練していきたいです。
担任としては、この「働き返し」の方向性をきちんと育むこと。支柱となって、力強く方向付けること。
「働き返し」が身についている子は、やっぱり深く味わう力があるし、そこからうまれることばもなかなかに美しいです。
というわけで、口の悪い子にも、最大の贈りものをするつもりで、めげることなく応じていこうと思います。
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話が長くなってしまいましたが、この世にあふれているすべてのアウトプット、表現、働き返しに、ありがとう!ということでした。
いまあなたの中で何かが痛くて苦しいのなら、それは次の大きな仕事につながっているかもしれませんね。一緒に乗り切っていきましょう〜。
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