【カミュ】異邦人をめぐるあれこれ
古本屋で出会った異邦人
家で長らく眠らせていた「異邦人」をひっぱりだしてきた。
古本屋で数年前に購入したこの本。
本には読むべきタイミングがあって、それがたまたま今日だったというわけだ。
まぁ有り体に言えば積読していたというだけなのだが、どういう訳か唐突にこの本が読みたくなった。
きっと太陽のせいだろう。
カミュの異邦人が刊行されたのは1942年。
与謝野晶子が没し、小沢一郎が生まれ、太平洋戦争における日本軍の最初の(そして最後の)花火に、国民が酔いしれていた年だ。
この新潮文庫の初版は1954年9月に刊行された。
戦後のベビーブーム真っ只中。マリリン・モンローが来日し、中日ドラゴンズが優勝した年だ。
本には2枚の紙片が挟まっていた。
ひとつは新潮文庫の広告。
そこには「拳骨で読め。乳房で読め。」と書かれている。
このキャッチコピーからはいかにも、戦後の活況と混乱が読み取れるような気がする。
そしてもう一つは、とある新聞記事の切り抜きだった。
「ソ連が生産刺激策導入」と書かれた色褪せた紙片。
1991年5月14日。
騒乱と革命の煙が大国に漂っていた。
世界はこの巨大なハリボテが少しずつ崩れていく音に、体を硬らせていたのかもしれない。
ソ連崩壊の7ヶ月前。
この半年後に69年続いた巨大共産圏は崩壊した。
69年という歳月。
当時の人は、これが永遠に続くかのように感じていただろう。
皆忘れているが、インターネットが一般普及してから、まだ30年も経っていないのだ。
このソ連の悪あがきを伝える記事の裏には、異邦人の翻訳者へのインタヴュー記事があった。
訳者の窪田氏は作家として活動するが、戦後日本の文学界に絶望し欧州に移住し、(記事当時)30年余が経ったそうだ。
そんな異邦人でもある窪田氏が、日本人のためにカミュを翻訳し、戦後日本に衝撃を与えることとなった。
明日生きることを考えることで精一杯の時代に、この神なき時代を扱った作品は、戦争により神を失った日本人にとってどのように映ったのだろうか。
あらすじ
ムルソーはとある揉め事で人を殺してしまう。
だが相手から武器もって仕掛けてきたこともあり、客観的にムルソーの罪はそれ程重くないようにも思える。
しかし、ムルソーの無神論的思想が裁判の心象を悪化させてしまう。
そして裁判は事件よりはむしろ、直接事件には関係ないと思われる「母に対する愛情の欠如」などムルソーの人格に焦点があたることになる。
そして無情にも、絞首刑というもっとも重い罪を言い渡される。
それはさながら、無神論者という異邦人を追放するかのように。
無神論という信仰
作品を読破しはじめに頭を過ったこと。
それは自分ならきっと、神を信じると嘘をついていただろうということだ。異邦人においては主人公ムルソーを助けようと、多くのキリスト教徒が手を差し伸べる。
しかしムルソーはその手をことごとく払い除け、無神論を頑なに貫く。
彼の弁護士もその態度に嫌気がさし
といった具合に痛烈な皮肉で呼ばれてしまう。
もし自分なら、反クリストさんなんて言われたらきっと落ち込むだろう。
(まぁ「反クリストさん」という絶妙なワードセンスで笑う可能性もあるが。)
兎にも角にも、もし神を信じると発言することで刑が軽くなるなら、嘘をつくことは合理的な判断だと言えるだろう。
しかし、その小さな妥協がその後の人生全てを侵食していくとも限らない。
腐ったみかんのように、たったひとつの嘘が自身を飲み込んでいくことになるとしたらどうだろうか?
だがよくよく考えてみると、人生は嘘を基盤に築かれていると言えなくもない。
人は幼少期から思っていても言うべきではないと厳しく教えられる。
嘘は人生のあらゆる場面に現れ、それが常態化していく。
そうして自分の想いと嘘との境界は曖昧になり、いずれ人は神を信じる。
ムルソーは嘘をつくことを最後まで否定した。
そういった意味では真の無神論者ともいえるだろう。
だがムルソーは無神論という信仰に終始していたともいえなくはないだろうか?
何故なら、もし信仰がなければ迷わず生きることを選択するはずだからである。
有神論の反対は無神論ではなく、虚無である。
ムルソーが虚無に陥らなかったのは、ひとつにスノビズムに裏打ちされた無神論が彼を捕らえていたともとれる。
そしてそれは最終的に侍が切腹するかの如く、死をもって完遂されたと言えなくもない。
不可解な裁判
それにしても、ムルソーの裁判には明らかに不可解なところがある。
ムルソーは確かに人を殺した。
それも、銃弾5発を打ち込むオーバーキルで。
しかし、先にナイフをむけてきたのは紛れもなく相手なのだ。
これは本来なら正当防衛に該当するか否かが裁判の焦点になるはずである。
しかし、この物語には正当防衛についての記述がない。
それはこの時代に正当防衛が存在しなかったからなのか、それとも作者が意図的にそこを付け加えなかったのかは調べていないのでわからない。
ただ、この小説では以下のことが言いたかったのだろう。
「思想はそれ自体が罪となり得る」
要するに、何かを信じるとき、その信じていること次第ではそれ自体が罪なのである。
人を殺した者より、危険思想を持つ人間を野放しにするほうが危険となり得るということだ。
そして現代では、思想の自由なんてものが標榜されて久しいが、それはまさしく絵に描いた餅に過ぎず、本当はみんな「危ない考えの奴は殺した方がいい」と思っているのかもしれない。
この時代では無神論自体が危険思想であり、処罰の対象となった。
だからムルソーは死刑になった。
なにをしたかなんて本当はどうでもよくて、途中から「ムルソーを殺したい」という圧力に周りは染まっていった。
そして有名なあのフレーズ。
この部分だけ切り取ると、ムルソーがサイコパス野郎とレッテルを貼られても仕方がない。
ただこの小説を読むと「太陽のせい」という発言は、なんら比喩的な意味ではなく、本当にそのとおりだということがわかる。
ムルソーを弁護するなら、この時ナイフを向けられたことによる恐怖と暑さで、正常な判断ができないことが事件の原因になってしまったといえる。
ただしこの裁判は、この発言の時点ではもはや結果ありきで進んでいるため、今更ムルソーが何を言っても言い訳になってしまうのだ。
この何を言っても言い訳になるという状況の不条理さがこの小説の後半部分を通奏低音のように流れているのだが、こういった状況に置かれると人はもはや言葉を発するのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
そういった時に、前後の説明をなくして端的に「それは太陽のせいだ」としか発言することが許されないことへの無力感が、この一文から重々しく伝わってくる。
神なき時代
この小説には、2つの大きなテーマが流れている。
ひとつは、思想は自由であるべきだということ。
そして、思想の自由が担保されることは永遠にないということだ。
この二律背反の命題が合流し、不条理という形で私たちに無力感と苛立ちを沸き立たせる。
だがこの不条理に対し、ムルソーは死刑を待つ折、ひとつの光明を得る。
それは、それでも人間の思想は自由だということである。
思想が自由であるべきだという思いは挫かれた。
そもそも民衆が思想の自由(ムルソーの無神論)を享受できるわけがない。
しかし彼は自分の思想の自由だけは最後まで守れた。
そして神なき時代を生きる我々にとって、ムルソーが死をもってまで貫いた精神は、一体どのように映るのだろうか?
ただ悲しいかな。
それでも僕には、ムルソーの死がただの犬死に見えてしまう。
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