見出し画像

ドラマ「エルピス」プロデューサー・脚本家のインタビュー記事を読んで、ゲシュタルト療法について考えたこと

話題沸騰中のドラマ「エルピス」。

このドラマの脚本家の渡辺あやとプロデューサーの佐野亜裕美のインタビュー記事を読んでいたら、コーチングの理論やプロセスの重要な柱の1つであるゲシュタルト療法にそっくりな場面が出てきて驚いた。

と同時に、ドラマ第1回の最終盤にその状況を思わせる場面が出てくるのは偶然ではないんだろうなとも思った。

勝手に抱いていたイメージとぜんぜん違うぞ

なにしろこのドラマのプロデューサー・佐野亜裕美という人は、かの「カルテット」や「大豆田とわ子と三人の元夫」をつくった人なので、どんな状況になっても顔色ひとつ変えずにバシバシ仕事をする人なのだろうと思っていた。

ところが、インタビュー記事から浮かびあがる素顔がぜんぜん違っていてビックリ。

佐野 2017年の初めは軽井沢と島根をわりと行ったり来たりしていました。ある日は坂元裕二さんに怒られてその翌日は渡辺あやさんに怒られる。本当にパンクしそうでしたね(笑)。

脚本家の渡辺あやは、ドラマのつくり手として「一体自分は、本当は何をつくりたかったのか」という迷いを抱いていたその頃のプロデューサーを、「迷える柴犬」(!)と評している。

渡辺 佐野さんの情熱は何に向いているのだろうということを私はすごく知りたかった。だからいろんなことを質問してみるんですけど、このときはうなだれた”迷える柴犬”になっているので、なかなか真意が出てこないんですよ。

そこである時、佐野さんの「プロデューサーとしての強みはなんですか?」とちらっと聞いてみたんです。東大出身でキャリアを積んで、あれだけいろんな人にすごいと言われているのだから、いろいろあるだろうと思ったんです。

そのときの答えは「フットワークが軽いこと」でした。聞きたかったのはそういうことではなかったので、私は「ふーん」と軽い返事をしたんです。でもどうやらそれが佐野さんに刺さってしまったようで、突然声を上げて泣き出されて

バリバリ仕事をこなす大豆田とわ子みたいなイメージを重ね合わせていたけど、これはだいぶ様子が違うぞ。

これってゲシュタルト療法じゃないか

インタビュー記事によれば、声を上げて泣き出すまでに、プロデューサーの心の中ではこんな思いがかけめぐっていたそうだ。

佐野 自分としては前向きな回答で、フットワークの軽さは自慢だと思っていたのですが...  私が答えるべきはそういうことではなかったんですよね。その後あやさんは続けて、「ではそもそもなぜドラマプロデューサーになったんですか」と質問してきました。

深い問いの始まりです。なぜドラマプロデューサーになったかを紐解くには、私自身をさらに掘り下げる必要がありますから。「なんでテレビ局に入ったか」「どうして東大に入ったのか」「どうして高校に……」と自分自身の過去をさかのぼっていったんです。

すると、自分の中にずっと存在していたけど誰にも話してこなかったことがいろいろと見つかりました。つらい記憶も多かったですが、自分でも言語化できていなかったことをあやさんには全部話せてしまった。過不足ない的確な問いを前に、自分の内に見つけた言葉を紡いでいったら、いつのまにか号泣していたんです。

問いをきっかけに、過去にさかのぼり、自分を掘り下げ、それまで自分でも言語化できなかったことについて言葉を紡いでいく。そうして自分自身を回復する。

これってゲシュタルト療法そのものだな、と思った。

心残りを完結させる

ゲシュタルト療法は、米国で活躍したドイツ系ユダヤ人の精神科医、フリッツ・パールズが提唱した心理療法。

ゲシュタルトは、ドイツ語で「形」「まとまり」「統合」といった意味だ。

ひらがなの「ふ」という文字をじ〜っとながめていたら、なんだか見たこともない不思議な形に思えてきた、みたいなことが「ゲシュタルト崩壊」。ふだんは深く考えずに当たり前だと思っている形やまとまりの全体像が壊れること。

だから、ゲシュタルト療法の目的は、

自己や自己の欲求を「形」にして表現し、未完結のものを「完結」へと導き、「全体」として「まとまり」ある方向へ人格の「統合」を図ること

「心理療法ハンドブック」p.158

未完結のもの」とは、「こうしたい」と思いながらもできなかったり、その気持ちを抑えつけたりして、やりたかったことが完結しないままになっている状態。そこに心残りがある、ということ。

この療法は、自分でも気づかないうちに澱のようにたまっている心残りを形にすることで気づきをうながし、「心残り(未完結の経験)を完結する機会を提供する

ゲシュタルト療法がコーチングに与えた大きな影響

1960年代の米国で急速に広まったゲシュタルト療法は、いまのコーチングに大きな影響を与えている。

このゲシュタルト療法は1960年代の米国におけるヒューマンポテンシャル運動とともに台頭し、その後、エンカウンター・グループシステムズアプローチNLP認知療法などに影響を及ぼしている。また全人的な関わり方は心療内科での医療や危機介入などに影響を及ぼしている。

「心理療法ハンドブック」p.159

ゲシュタルト療法を語る以下の言葉をみれば、コーチングを語る言葉としてそのまんま使われていることがよく分かる。

ゲシュタルト療法の仮定は、「気づきに始まり気づきに終わる」と言われている。

換言すれば、不統合からより統合へと志向する仮定ということになるが、クライエントの自己への気づきにより始まり、次から次へと新たな気づきの連続を経て、まとまりのある全体の気づきへと展開されていく...

この過程は「今、ここ」という現象学的場におけるセラピストの介入を媒介にして促進されるのである。

「心理療法ハンドブック」 p.159-60

やっぱり「カルテット」「大豆田」のプロデューサーなのだ

インタビュー記事の以下の言葉は、「まとまりのある全体」を回復することで、どんな変化が起きるのかをとてもよくあらわしていると思う。

佐野 本当にすべてをさらけ出してしまったんですよね。おかげでこの日はスッキリして帰りました。

渡辺 おそらくこのとき、佐野さんの中に何かしら変化があったのだと思います。自分の中にあった問題意識のようなものがやっと出てきたのでしょうね。顔つきや言葉の使い方がどんどん変わっていきましたから。

佐野 思えばあやさんには出会ってからずっと「あなたは何者か」を問われ続けていたんですよね。自分の内なる声に耳を傾け心からやりたいと思う仕事をすべきだということを教えてもらいました。

すべての感情をさらけ出して「スッキリ」した後は、それまで自分の中で抑えつけてきた問題意識が明らかになって、「顔つきや言葉の使い方」がどんどん変わる。

これを逆にいえば、そうした全体性が回復されるまでは、いろんなものを抱え込み抑えつけ忘れようとしながらも、つねにそれを自分の中から吐き出そうとする大きな力に悩まされつづける。

長澤まさみ演じるドラマの主人公・浅川恵那のような状態だ。

バラエティ番組のチーフプロデューサーに対して「私はもう飲み込めない」という言葉を放ち、新人ディレクターに「おかしいと思うものを飲み込んじゃだめなんだよ」と説く浅川には、それまで抑えつけてきたものに気づき、「顔つきや言葉の使い方」がどんどん変わっていった、プロデューサーの佐野亜裕美が重ね合わされているように思える。

渡辺 私は自信満々な人より、コンプレックスを抱えていたりどこか欠けてるところがある人の方がつくり手として魅力的に感じる節があるんです。だからこそ、この人と一緒に作品をつくってみたいなと思いました。

このドラマのプロデューサー・佐野亜裕美さんは、自分の弱さをそこまでさらけ出すことができる強さを持った人だということなのだろう。

そう考えてみれば、(それまでのイメージとは真逆ではあるけど)ある意味で「カルテット」や「大豆田とわ子」をつくったプロデューサーらしいなとも思えてきた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?