ドラマ「エルピス」プロデューサー・脚本家のインタビュー記事を読んで、ゲシュタルト療法について考えたこと
話題沸騰中のドラマ「エルピス」。
このドラマの脚本家の渡辺あやとプロデューサーの佐野亜裕美のインタビュー記事を読んでいたら、コーチングの理論やプロセスの重要な柱の1つであるゲシュタルト療法にそっくりな場面が出てきて驚いた。
と同時に、ドラマ第1回の最終盤にその状況を思わせる場面が出てくるのは偶然ではないんだろうなとも思った。
勝手に抱いていたイメージとぜんぜん違うぞ
なにしろこのドラマのプロデューサー・佐野亜裕美という人は、かの「カルテット」や「大豆田とわ子と三人の元夫」をつくった人なので、どんな状況になっても顔色ひとつ変えずにバシバシ仕事をする人なのだろうと思っていた。
ところが、インタビュー記事から浮かびあがる素顔がぜんぜん違っていてビックリ。
脚本家の渡辺あやは、ドラマのつくり手として「一体自分は、本当は何をつくりたかったのか」という迷いを抱いていたその頃のプロデューサーを、「迷える柴犬」(!)と評している。
バリバリ仕事をこなす大豆田とわ子みたいなイメージを重ね合わせていたけど、これはだいぶ様子が違うぞ。
これってゲシュタルト療法じゃないか
インタビュー記事によれば、声を上げて泣き出すまでに、プロデューサーの心の中ではこんな思いがかけめぐっていたそうだ。
問いをきっかけに、過去にさかのぼり、自分を掘り下げ、それまで自分でも言語化できなかったことについて言葉を紡いでいく。そうして自分自身を回復する。
これってゲシュタルト療法そのものだな、と思った。
心残りを完結させる
ゲシュタルト療法は、米国で活躍したドイツ系ユダヤ人の精神科医、フリッツ・パールズが提唱した心理療法。
ゲシュタルトは、ドイツ語で「形」「まとまり」「統合」といった意味だ。
ひらがなの「ふ」という文字をじ〜っとながめていたら、なんだか見たこともない不思議な形に思えてきた、みたいなことが「ゲシュタルト崩壊」。ふだんは深く考えずに当たり前だと思っている形やまとまりの全体像が壊れること。
だから、ゲシュタルト療法の目的は、
「未完結のもの」とは、「こうしたい」と思いながらもできなかったり、その気持ちを抑えつけたりして、やりたかったことが完結しないままになっている状態。そこに心残りがある、ということ。
この療法は、自分でも気づかないうちに澱のようにたまっている心残りを形にすることで気づきをうながし、「心残り(未完結の経験)を完結する機会を提供する」
ゲシュタルト療法がコーチングに与えた大きな影響
1960年代の米国で急速に広まったゲシュタルト療法は、いまのコーチングに大きな影響を与えている。
ゲシュタルト療法を語る以下の言葉をみれば、コーチングを語る言葉としてそのまんま使われていることがよく分かる。
やっぱり「カルテット」「大豆田」のプロデューサーなのだ
インタビュー記事の以下の言葉は、「まとまりのある全体」を回復することで、どんな変化が起きるのかをとてもよくあらわしていると思う。
すべての感情をさらけ出して「スッキリ」した後は、それまで自分の中で抑えつけてきた問題意識が明らかになって、「顔つきや言葉の使い方」がどんどん変わる。
これを逆にいえば、そうした全体性が回復されるまでは、いろんなものを抱え込み、抑えつけ、忘れようとしながらも、つねにそれを自分の中から吐き出そうとする大きな力に悩まされつづける。
長澤まさみ演じるドラマの主人公・浅川恵那のような状態だ。
バラエティ番組のチーフプロデューサーに対して「私はもう飲み込めない」という言葉を放ち、新人ディレクターに「おかしいと思うものを飲み込んじゃだめなんだよ」と説く浅川には、それまで抑えつけてきたものに気づき、「顔つきや言葉の使い方」がどんどん変わっていった、プロデューサーの佐野亜裕美が重ね合わされているように思える。
このドラマのプロデューサー・佐野亜裕美さんは、自分の弱さをそこまでさらけ出すことができる強さを持った人だということなのだろう。
そう考えてみれば、(それまでのイメージとは真逆ではあるけど)ある意味で「カルテット」や「大豆田とわ子」をつくったプロデューサーらしいなとも思えてきた。
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