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中山みき研究ノート

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立教150年(1987年)、八島先生の名前で立風書房から刊行された「中山みき研究ノート」の全文を、順次公開していきます。
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2022年8月の記事一覧

中山みき研究ノートをご覧の皆様へ

『中山みき研究ノート』は立教149年(1986)教祖100年祭の年の連続講座の講義録で、翌年出版されました。それから10数年を経た頃、本が入手できない、再版を希望する声が多く出たのです。しかし、八島先生は再版はしないと言っていました。今もっと検討した顕正教祖伝を行なっているので、こちらを読んで知ってほしいと常に言われていました。過去に発表したものよりも、もっと正確な、そして、素晴らしい教祖中山みき

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中山みき研究ノート3-8 屋敷のそうじ

中山みき研究ノート3-8 屋敷のそうじ

当時のつとめ場所には天神十二柱が祀られてはいたものの、そこでは修験道と変わらない祈祷が行なわれ、大勢の人が参拝に訪れていました。この時期、45日間に約1500人、延べ人数で2174人にも上るお願いが行なわれたと『御神前名記帳』(注=天理大学おやさと研究所編『天理教事典』347頁 1977年刊)には出ています。これは、秀司が天皇家の神を祀り、祈祷料をもらったり御札を売ったりしていることの繁栄であって

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中山みき研究ノート3-9 惟神の道

中山みき研究ノート3-9 惟神の道

明治3年には、「吉田神祇管領が廃止された」と『稿本教祖伝』にあります。そして、

と続いています。しかし、吉田神祇管領が廃止されたことよりも、重大な事が明治3年には起こっています。それはこの年の1月3日に大教宣布の詔が出されたことです。漢文で書かれたこの詔には、これからの日本は惟神の道に従って国是を定めていくから、大いにこの大教(惟神の道)を宣布せよ、という内容が書かれています。これは、天皇とその

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中山みき研究ノート3-10 高山布教

中山みき研究ノート3-10 高山布教

『稿本教祖伝』によれば、明治7年陰暦10月のある日、大和神社に対して教祖の方から問答を仕掛けておられます。しかし、この10月ということには問題があると思います。10月以前のおふでさきには、

と記されています。陰暦8月には、高山に対してはっきりとこの道の理を教えると宣言されているのです。さらに、大和神社の神職や守屋神社の神職の話を総合すると、この問答は8月に行なわれたものと考えられます。

この8

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中山みき研究ノート3-11 赤い着物

中山みき研究ノート3-11 赤い着物

明治7年陰暦11月の山村御殿での取調べの後に、教祖は赤衣をお召しになりました。そして、今までは神という言葉を使っていたけれど、これからは月日という言葉で説くと言われました。国の政府が、神とは、天皇やそれに忠義を尽くしたことによって神と認められた者のみが神であるとして、いわば神を独占したからです。

それまでは、海川野山、その他あらゆる所に神がいたし、雨や風といった自然現象までも神とされていました。

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中山みき研究ノート3-12 ぢば定め

中山みき研究ノート3-12 ぢば定め

その当時、お屋敷では中南の門屋が作られていました。入口の通路をはさんで、西側に10畳の間、東側には仕事場のような部屋がある門屋です。教祖は、門屋の工事が行なわれている時期に、庭の一角に、かんろだいのぢばを定めておられるのです。

つとめ場所は、おつとめを教え、教祖の教えを取り次ぐ所だったのですが、慶応3年から、秀司が天輪明神を祀って拝み祈祷の営業をしてしまったのです。いわば、一度、汚物を盛ってしま

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中山みき研究ノート3-13 こかんの死

中山みき研究ノート3-13 こかんの死

明治8年にはこかんが病となり亡くなられるという大きな出来事がありました。その時期、教祖は、

と、おふでさきにあるように、教祖と共に神の心を取り次ぐ第一人者としてのこかんであるから、お屋敷で十分に働けるように段取りをしてくれと、秀司夫婦に要望していたのです。

しかし、秀司にしてみれば、天輪明神の営業をしても、皆はこかんの方を信頼しているから、面白くない。だから、どうしても梶本の後添いに出すよう計

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中山みき研究ノート3-14 男児誕生

中山みき研究ノート3-14 男児誕生

同じく明治8年には、秀司と、若い女房としてご新造さんになっていたまつゑとの間に、子供が生まれています。同年3月頃のおふでさきには、

と記されていますが、当時は5ヶ月目にならないと孕んでいると言わなかったのです。それで、この夏の頃、または秋の始めの頃に子供が生まれました。「名はたまへ」と教祖は記しておられるので、多分「たまへ」と名付けられたと思います。

しかし、この時に生まれたのは男の子でした。

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中山みき研究ノート3-15 蒸風呂、宿屋の営業

中山みき研究ノート3-15 蒸風呂、宿屋の営業

明治9年から10年のことについて、『稿本教祖伝』には次のように述べられています。

ここには秀司が風呂を作って明治9年から営業していたことが出ています。 また、宿屋も作ったと出ています。さらにこの時期には、秀司が40日間、警察に捕えられたとあります。教祖が人を集めるから、秀司が捕えられたのだという言い方になっていますが、正式な風呂と宿屋の許可証の日付を見ると、事情は違っていたようです。

蒸風呂の

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中山みき研究ノート3-16 雨乞いづとめ

中山みき研究ノート3-16 雨乞いづとめ

明治9年には、雨乞いづとめが行なわれました。

昭和3年に本部はおふでさきを印刷して各教会に配り、全教会長に対してその講習会を行ないました。その時の内容が『おふでさき講義』として出版されていますが、その中の12号のところに、この雨乞いづとめのことが語られています。

雨乞いづとめが、3日間、当時のそうそうたるメンバーを集めてつとめられたにもかかわらず、雨は降らなかった、とサバサバとした調子で書かれ

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中山みき研究ノート3-17 転輪王講社

中山みき研究ノート3-17 転輪王講社

明治10年代の出来事については、『稿本教祖伝』では、第7章「ふしから芽が出る」 に書かれています。その冒頭に、

と、前後十数回にわたる教祖の御苦労を捉えていますが、このことについて、今一度考えてみましょう。

「教祖に罪科あっての事ではない」とありますが、道義上の罪科は、たすけ一条を通る教祖にはもちろんないのですが、法律上はどうだったのでしょう。

当時、日本の社会は完全な君主制であったので、民

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中山みき研究ノート3-18 こふきへの疑問

中山みき研究ノート3-18 こふきへの疑問

何故、教祖が、これほどまでお怒りになったのでしょう。それは、この時期に入りこんだ日暮宥貞の説教のために、元初まりの話が歪められてしまったからなのです。

教祖は、この世の元初まりの話で人類の発生と進化の歴史を教え、個人における元初まりの話を、かぼちゃの話にたとえて、かんろだいにそれを表わし、男女の五分と五分のたすけ合いで、永遠の命が生まれるということを教えられたのです。

ところが秀司の転輪王講社

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中山みき研究ノート3-19 転輪王講社の壊滅

中山みき研究ノート3-19 転輪王講社の壊滅

秀司は、明治14年4月8日(陰暦3月10日)に61歳で亡くなったが、その時のことを「橋本教祖伝』では、

というおふでさきを引いて、「どこも悪いところのない秀司の足に徴をつけてお道を創めるきっかけとしたが、その後、苦労させたね」と労いの言葉をかけられたように書かれていますが、これは実は十二号のおふでさきなのです。39年以前の立教ならば、このおふでさきは明治9年に書かれたことになり、秀司が亡くなった

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