明治9年から10年のことについて、『稿本教祖伝』には次のように述べられています。
ここには秀司が風呂を作って明治9年から営業していたことが出ています。 また、宿屋も作ったと出ています。さらにこの時期には、秀司が40日間、警察に捕えられたとあります。教祖が人を集めるから、秀司が捕えられたのだという言い方になっていますが、正式な風呂と宿屋の許可証の日付を見ると、事情は違っていたようです。
蒸風呂の営業は、明治11年3月27日付けで許可になり、宿屋は、明治13年3月に堺県から出された営業免許の鑑札が中山家に残っています(注=『復元』37号、193~196頁。櫟104)。
正式許可が蒸風呂が11年、宿屋が13年であれば、10年(一部資料によれば9年)に秀司が40日間も捕えられたのは、今でいえば無許可営業の罪と、そこで得た収入を報告しなかった脱税の罪を問われたということではないかと思われます。
40日間も警察に捕えられて帰って来た秀司は、「信仰は小始末にしてくれ、目立たないようにしてくれ」と人々に言っています(注=諸井政一 『正文遺韻』74~76頁〈山名大教会〉1937年刊。櫟105)。教祖の傍へ来る人達の、真理を理解して心を入れ替え、世直しをしていこうという働きは、秀司にとっては警察の目が光る危険で迷惑なことでした。教祖の所に来た大勢の人がお金を払って、営業が成り立てばそれで十分なのです。
お屋敷でのおつとめ練習は秀司が止めるからというので、前裁村の村田幸右衛門宅に、仲田儀三郎がわざわざ出向き、その地域の人を集めておてふりの練習をしたことがありましたが、それを聞きつけた秀司が悪い足を引きずって、止めに行ったという話が伝わっています。
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