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中山みき研究ノート3-11 赤い着物

明治7年陰暦11月の山村御殿での取調べの後に、教祖は赤衣をお召しになりました。そして、今までは神という言葉を使っていたけれど、これからは月日という言葉で説くと言われました。国の政府が、神とは、天皇やそれに忠義を尽くしたことによって神と認められた者のみが神であるとして、いわば神を独占したからです。

それまでは、海川野山、その他あらゆる所に神がいたし、雨や風といった自然現象までも神とされていました。しかし、日本人の意識の中に昔からあったこのような神や、転輪王や多聞天、毘沙門天といった仏教系の神を、崇めることも教えることも禁止したのです。世界たすける転輪王という神の心を我が心として通る、つまり神の社という言葉の意味は、明治以後の日本語では、神という言葉を使うと言い表せなくなるのです。 それで、このときから「神」を「月日」と呼び名を換えられたのです。

月日というのは、月様、日様ではありません。たすけたいという心でお恵みくださるだけで何も望まないものという意味で、月日の社と言い換えたのです。そして、月日の社になって生きると心を定めた者にはその証拠に、

このあかいきものをなんとをもている
なかに月日がこもりいるそや
(六 63)

という言葉と共にこの赤衣を許されたのです。教祖の尊厳を皆に知らせるために、教祖一人だけが着たということではありません。

赤い色の着物は、その当時、偉い官吏や、偉い宗教家が着たものでした。また、北大和一帯では、77歳の陰暦11月15日に、子供に欲の仕事を譲って、聖なる人間になった証として赤衣を着る風習があり、教祖も丁度、赤衣を用意されていたのですが、その日に山村御殿で取調べがあったので、三日後に、お召しになられたのです。この11月18日は、土地の人がお参りする松尾寺の縁日なのですが、 教祖が赤衣を着たのはこの日に関連があるかどうかははっきりしません。

辻忠作が頂かれた赤衣の襦袢の裏を返してみると、衿の裏の布を何回か小さく切って人に与えた跡があります。月日の社として、その心を伝えるようにと教祖からお許し頂いた赤衣を、自分の働きかけによって月日の社になる心定めをした人にもその証拠として分け与えた跡なのです。これが後に証拠守りとなりました。

証拠守りは教祖の赤衣の小片ですが、それを全身に着て、月日の社という自覚を持って、たすけ一条を生きるという心定めの証拠です。その心があれば、どんなこともよく見えてくるし、自分が何をしたらいいかもわかってきます。そして、迷いや悩みもなく、どんな境遇でも生き甲斐をもって人生を送ることができるのです。

この時期に教祖は、神の社になって、たすけ一条を通ると心定めをしていたことから、仲田儀三郎、辻忠作、桝井伊三郎、松尾市兵衛という人々に、私の教えを取り次いでよろしいと、おさづけ、、、、の理を渡されました。さづけ、、、とは、正しい道の理を理解して、神の社になったということを自覚した時、他の人にそれを取り次ぐようにと許されるものです。これは人だすけの免許証と言うこともできますが、たすかりたい一心で別席を運んでも拝み祈祷の一つの方法と思っている人にとっては、迷信でしかありません。

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第3章 教祖の道と応法の道
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