中山みき研究ノート3-13 こかんの死
明治8年にはこかんが病となり亡くなられるという大きな出来事がありました。その時期、教祖は、
と、おふでさきにあるように、教祖と共に神の心を取り次ぐ第一人者としてのこかんであるから、お屋敷で十分に働けるように段取りをしてくれと、秀司夫婦に要望していたのです。
しかし、秀司にしてみれば、天輪明神の営業をしても、皆はこかんの方を信頼しているから、面白くない。だから、どうしても梶本の後添いに出すよう計ったのですが、こかんは何かにつけて、真之亮や小さな子を連れては、教祖のところに通い、教えの取り次ぎを心がけておられたのです。
この年の夏の頃、長年にわたって、教祖と艱難苦労を共にしたこかんが身上障りとなり、容体が重くなってきました。6月に書かれた十一号のおふでさきには、「胸先につかえる」(十一 41)というお言葉が出てきます。 こかんは妊娠していたのです。
その頃、こかんはつらい立場に置かれていました。ときどき教祖の所に行って、教えの取次ぎをしようとすれば秀司夫婦の露骨ないやがらせがあり、教祖の言葉通りのご用は出来ません。また、子供を生んだら梶本家の主婦として、あるいは母親として育児や夫に仕えるという仕事しか出来なくなります。 このような悶々とした悩みを持っていたので、つわりも激しかったことでしょう。それが夏の頃の「胸先へつかえる」ということであったのです。
いよいよお産となったのですが、これが大変な難産でした。39歳という年齢です。今でも高齢で、初産というのは異常分娩が多いのです。長時間、苦しみ抜いた末に結局は死産となり、こかんはその体力を使い果たしてしまったのです。
史料集成部主任であった山沢為次氏はこのお産が「からっこ」であったと伝えています。これは今でいう早期破水のことです。現在ではそれほど重大な異常とは考えられていませんが、当時にあっては命取りとなる大事でした。
こかんは自分の死期を悟りました。すると、教祖の待つお屋敷に帰りたいという思いが無性に沸き上がってくるのでした。教祖と共におつとめを教える中に、互いたすけ合いの心を治める人が次々と出来ました。 こかんはその世話取りに自分の全てを注ぎ込んできたのです。
「おぢばに帰りたい。そして私が教えてきたおつとめを見て死にたい」
こかんはわずかに残された体力をふりしぼって、夫の惣治郎に懇願したことでしょう。
陰暦8月26日。当時、縁日とよばれていたその日に、こかんが梶本の家から戸板に乗せられて帰ってきました。しかし、この日、教祖は奈良警察署に出頭を命ぜられて不在でありました。
こかんの身上はいよいよ迫ってきました。
「私の生涯の全てであるかぐらづとめが見たい。見たい」
こかんの願いに衝き動かされて、居合わせた人々は、かねて伊蔵が作って倉にしまい込んであった六尺程の大きさのかんろだいをぢばに据えて、教えられた通りにかぐらづとめを行ないました。
こかんはついにかぐらづとめを見ることができたのです。
この時、こかんは新しく出来上がった門屋からかぐらづとめを見たのか、それとも、つとめ場所からであったか、はっきりしません。また、ぢば定めをした地点には目印として杭が打ち込んであったということが伝えられているので、この日は杭を引き抜き、新たにかんろだいが据えられたものと思われます。
これを見ていた秀司や山中忠七といった天輪王明神の拝み祈祷の影響を受けた人達は、ぢば定めの後に初めて行なわれたこのおつとめが、こかんの病気平癒を願ったおつとめだと誤解し、伝えたのです。
しかし、こかんは決して自分の身上平癒を願って下さいと頼んだのではないのです。世界だすけの心定めをここでして下さい、というこかんの意を承けてつとめられたのが初めてのかんろいづとめであったのです。
2日後の陰暦8月28日にこかんは亡くなりました。その後、明治20年に教祖も亡くなられるのですが、その時の状況と全く同じであり、教祖の子らしい最後であったと思われます。
この知らせを受けて教祖は、警察の許しを得て急いで帰ってきました。 その時の様子は次のように伝えられています。
大阪のある大教会長の祖母に当たる人が、ちょうどこの時、お屋敷にお手伝いに来ていたのです。その人が後に語った言葉によると、教祖は警察から帰られると、つとめ場所に安置されたこかんの遺体の傍にさっと寄られ、額を指がめり込むほど強く突いて、「このことが分からなかったのか」という意味のことを厳しく言われたということです。
この時、教祖は、ただ一人の取次人であり、自分の思いを心から理解して、生涯この道のために通ってくれた娘の挫折を悲しまれたのです。梶本家に行ったことをどんなに残念に思っておられたことか。 また、こかんにしても教祖の傍にいてこそ教祖の取次人として通れるのですが、一度距離を置いたが為に、いろいろな障壁が入って来て、悶々とした中で身上を倒すことになってしまったのです。『稿本教祖伝』では、
と、いわば俗っぽい表現になっています。しかし、教祖の教えでは、最初の命が生み出されて以来、親から子へと途切れることなく生き続けて今に至った命であるから、その命を大切にして互いにたすけ合うようにというものです。さらには、
というおふでさきからみても「早く帰っておいで」などと、死んだ者が帰ってくるというような表現はあろうはずがないのです。
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