中山みき研究ノート3-9 惟神の道
明治3年には、「吉田神祇管領が廃止された」と『稿本教祖伝』にあります。そして、
と続いています。しかし、吉田神祇管領が廃止されたことよりも、重大な事が明治3年には起こっています。それはこの年の1月3日に大教宣布の詔が出されたことです。漢文で書かれたこの詔には、これからの日本は惟神の道に従って国是を定めていくから、大いにこの大教(惟神の道)を宣布せよ、という内容が書かれています。これは、天皇とその先祖を神として祀り、それ以外の思想を排除し弾圧するという方針を新政府が固めたことを表わしています。
それでは何故、惟神の道を教えるという時に、神道である吉田神祇管領が廃止されたのでしょうか。当時の吉田神祇管領は、神道、真言密教、陰陽道を統一して、いずれの参り場所にも許認可を与えるというものでありました。ところが、大教宣布の詔以後、天皇神道のみを正当とし、天皇を中心として忠義孝行を説き、服従精神で固めていく政策が厳しく進められたのです。従って、それまで他の教えも同じような重みで説いていた吉田神祇管領のあり方では、不適当ということになりました。
明治5年には大教院制度が作られ、同6年には、各府県に中教院、7年には各郡に小教院が設けられたのです。
大教院制度を支えたものは、明治5年に出来た文部省と教部省です。学校教育の中で、天皇が神の御裔であると説くのが文部省であり、学校以外の社会教育を担当する教部省では、単に天皇は生神様であると説くだけではなく、天皇神道の原典ともいうべき『古事記』『日本書紀』特に『日本書紀」の橿原奠都の詔などに基づいて、天皇紀元という事を前面に押し出して来たのです。そして、世界の八紘を覆いて一つの宇 (家) となし、それを治めるのが天皇だと教えたのです。
中国の古い文献によれば、中国本土を九州とか九国と呼び、その周り千里を八殥といい、その外に八紘があるということです。 つまり、考えられる限りのあらゆる国々が八紘なのです。この八紘を覆いて家と為すための根拠地として橿原に都を作り、神武天皇が即位をしたのです。
天皇の目的は世界を支配することであり、これが天皇制軍国主義の出発点です。
神武天皇が橿原に即位した年を天皇暦元年として、明治6年を皇紀2533年と数えました。これは、天皇による世界制覇暦とも呼ばれるべきものです。そして、122代が睦仁・明治天皇です。
歴代の天皇は、世界を支配しようという八紘一宇の原則を受け継いでいるということから、万世一系といわれています。血統はその間にどんどん変わりましたが、八紘一宇の方針は万世一系に貫かれ、122代の睦仁天皇にも受け継がれている、というわけです。 そして、明治以降、この天皇がしろしめす何年という年号の数え方が一世一元制度として定められたのです。
この時期に、教祖が書かれたおふでさきは、紀元何年とか明治何年とかではなく、世界だすけを教え始めてから何年という書き方に統一されています。 つまり、30何年以前からこの教えを説いた、という言い方で、いわば世界たすけ暦です。
国の中では君主が支配者で、国民はそれに従属するというピラミッド型の社会を想定し、その維持のために「忠義」という道徳を教えました。 各家々では、戸主という支配者とそれに従属する家族という構造を支えるものとして「孝行」という道徳が教えられました。これは、難渋だすけの教祖とは真っ向から衝突します。教祖に対する弾圧は当然のことであったのです。
明治三年には、教祖は「ちよとはなし」のおつとめを教えられています。そして、「ちよとはなしはかぐらづとめのだしであるから、はじめにつとめるのやで」と、かぐらづとめの前、おつとめの冒頭に歌うように教えられたと伝えられています。
これは、この世界、つまり天地の在り方の根本は、夫婦が互いに補い合いたすけ合って陽気ぐらしを生み出す、という生き方にあるということで、かんろだいづとめの意味をそのまま短く圧縮したものです。
各々個人が自らの尊厳に目覚め、正義感を持ち、良心に従って生き、人々のたすけ合いによって陽気ぐらしを生み出すことを道徳の根本に置かれたのです。
また、明治3年には、十二下りのてをどりの前に、おふでさきの冒頭八首とほとんど同じ「よろづよ八首」が付け加えられています。当時のおつとめは、まず「ちよとはなし」、次に「あしきはらいたすけたまえてんりんおうのみこと」を21回繰り返してつとめられたということです。その後、かんろだいを教えられてからは、「ちょとはなし」の後に、「あしきはらいたすけたまえいちれつすますかんろだい」を21回つとめていたと、辻忠作達は伝えています。
また、この頃、教祖が75日の断食をなされたということが伝えられています。しかし、この断食は穀気を断ち、火を通したものは一切食べないということです。現在、断食というと、一切の食物を取らずに水しか飲まないものと考えられているので、教祖が75日の断食をしても普段と変わらなかったのは人間業ではない、などと言われていますが、この頃は五穀を断ち、煮た物を食べないといっても、生野菜と味醂、それに芋を擦りおろしたものまで食べていたので、充分にカロリーの補給はついていたのです。
さて、秀司や山中忠七達が運営している天輪王明神の方は、殆んど修験道と変わらない拝み祈祷や御札の発行などをやっていました。しかし、吉田神祇管領は許認可の権限を失ってしまったので、あらためて、新政府に願い出ようとしたのですが、教祖はそれを許しません。
明治6年1月15日には禁厭祈祷を禁止する法令が教部省から出されました。これによって、天皇神道の系列にある神社は御札を出しても、ご利益があると説いても弾圧されることはなかったのですが、それ以外の所は徹底して取り締まり、弾圧されたのです。この法律の実体は天皇神道以外の教えの弾圧を目的としており、旧来の迷信を打破するというものではなかったのです。
このような法律の監督下に置かれても、教祖は新政府の許可を取ってはならないとお止めになりました。もっとも、新政府の許可を得ていなくとも、吉田神祇管領当時に参り場所として許可を受けたものは、あらためて願い出なくともそのまま続けることができたのです。
新政府の方針は徹底した差別教育・暴力教育である惟神の道なので、その許可を受けてしまったら神祇管領管轄下より、さらに教祖の教えから離れてしまうことは目に見えています。それで許されなかったのだと思われます。
この間、教祖の周りでは明治5年6月18日に梶本惣治郎に嫁いでいた三女のおはるが亡くなりました。その前日に楢次郎を産んでいるのですが、当時の人々は「産むなり死ぬなりであった」と伝えています。
おはるはをびやゆるしの第一号となった人です。この人がお産で亡くなっているのです。このことは、をびやゆるしが、必ず安産さすという拝み祈祷ではないことをはっきりと示しています。
おはるが亡くなると、その夫である惣治郎は生まれたばかりの子供のこともあり、後添いを求めたいということになりました。
当時、大和というよりは日本全体の風習として、姉が亡くなって妹が未婚の場合、大抵は「なおる」といってその妹が後妻に入ることが、常識のように考えられていました。それで、こかんが一人身でいるのだから行ってくれれば良いと周りは考え、惣治郎も来てくれれば良いと思っていたのです。それで、縁談が進められました。
前々から秀司にとって、こかんは気の重い存在でありました。経済的失敗を後始末してもらった時や、おたすけをするのは教祖やこかんで、営業するのは自分という形になった時のことを思い返してみると、そこに浮かんでくるのはいつもこかんの姿でした。また、若き女房のまつゑにとっては小姑でもありました。そんなことから、秀司夫妻はこかんに梶本家の後添いになることを強く勧めたのです。
こかんは後妻に行くことになりました。
この時代には、秀司達は厄病除けやほうそ除けの御札を出すほかに、「肥のさづけ」を収穫をもたらす、おまじないとして出したり、さらには、教祖の教えには全くない虫払いの御札(虫札)などというものも出しています。
虫札は秀司達が売り出した御札の一つで、竹の棒などの先にはさんで田の水口に立てておけば、害虫から稲を守ってくれるとされていたものです。これは相当高価なものであったらしく、一つの虫札を何人もの人が借りて用いたという話も伝わっています。
明治2年におふでさきの一号、二号が書かれた後、三号は明治7年になっています。 この間、おふでさきは書かれなかったのか、それとも書かれてはいたが今に伝わっていないのか、はっきりしませんが、7年からの三号を見ると、厳しい調子で新政府の道徳教育を批判しておられます。
とお教え下さるように、このお道は拝んでご利益をもらうような宗教ではありません。その第一の根拠として、人間の発生を教えられた元初まりの話があります。
元初まりの話では生物全体の発生についても触れられていますが、最も詳しいのは人間についてです。私達が生まれ出る時の話を基にして、本当の陽気世界を創るという生き方が教えられています。
また、日本神話においては、高天原の神々が国や民を生んだということになっているのに対して、
と、泥海の中に生み出された小さな生き物が親神の守護によって、親から子、子から孫へと次々と 命を伝えて今日に至ったことを、お教え下さったのです。
この年までにかぐらづとめの準備を進めておられた教祖は、最初の神楽面を前川家に依頼して作っておられます。それを受け取りに行くとき、教祖が持って行かれたのはおふでさきの第三号と第四号でした。表紙に残る「明治七紀元より二千五百三十四年戌六月十八日夜二被下候」という文字は前川家で書いたと言われており、天皇紀元の書き方であります。
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