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中山みき研究ノート3-18 こふきへの疑問

何故、教祖が、これほどまでお怒りになったのでしょう。それは、この時期に入りこんだ日暮宥貞の説教のために、元初まりの話が歪められてしまったからなのです。

教祖は、この世の元初まりの話で人類の発生と進化の歴史を教え、個人における元初まりの話を、かぼちゃの話にたとえて、かんろだい、、、、、にそれを表わし、男女の五分と五分のたすけ合いで、永遠の命が生まれるということを教えられたのです。

ところが秀司の転輪王講社では学僧の日暮宥貞を呼んで来たために、元初まりの話は星曼荼羅の祈祷に合うような話に変えられてしまったのです。そこではまず、死んでも霊魂は不滅であるから、前生の行ないに見合った新しい体や境遇を得て(因果応報)生まれ代わると説かれました。教祖についてもイザナミノミコトの御魂という説き方が行なわれました。

また、明治14年までは、教祖の話の中に、「天にては」という言い方は一切なかったのです。泥海古記、泥海口記と言われるように、泥海中の動物にたとえた話はあったのですが、それをこの時から日暮宥貞は太陽や月、または源助星、破軍星といった星曼荼羅の中にある星々と関連付けて、とうとうと説いたのです。

教祖がおふでさき、、、、、の中にあらすじを書いた元初まりの話は、親から子へと伝えられる生き通しの命が、たすけ合って陽気づくめの世界に世直しをして行く原則を教えて下さったものです。それを日暮宥貞は、因果応報による生まれ代わりの教理に作り変え、星曼荼羅の教理を当てはめて、「神道にては……」「仏教にては……」「天にては……」というように、華麗に、かつまた、ごちゃごちゃに取り混ぜて説教を進めて行ったのです。

当時、日暮宥貞が描いた十柱の神の絵が、今も署名入りで残っています。その十柱の神は、竜神として描かれているのです。

星曼荼羅の中尊、転輪王の座っている所が須弥山シュミセンです。須弥山とは、この世界の中央にそびえ立っているとされる想像上の巨大な山ですが、星曼荼羅ではその須弥山に巻きつくように、一対の竜が描かれています。須弥山上の中尊を守護するこの竜神は、難陀ナンダ跋難陀バーナンダという竜王として、昔から仏教界では知られており、習合神道でも、春日大明神が難陀竜王であるといわれています。

慶応3年の天輪王明神の時、吉田神祇管領から許可を受けたのですが、吉田神社の古文書(天理図書館が買い取っている)に天神七代を描いた絵が残されています。そのうち、独り神三代は、密教的仏像として描かれており、その後の夫婦神三代は、次頁のような絵になっています。

イザナギ、イザナミは、狩衣と十二単衣の姿で夫婦神として描かれ、その次に「しろぐつな」の姿で天照大神が描かれています。つまり、それが秀司の祀った十二柱の神、というわけです。

このように、当時は仏教、習合神道、吉田神祇管領の唯一神道などは、お互いに関連を持っていたのでした。これらの諸説を学んでいた日暮宥貞は、教祖の教えに出会った時もまた、旧来の教えの中にそれを当てはめて説明しようとしたものと思われます。

確かに教祖は天神七代からいくつかの神名を用いておられます。そして、つとめ人衆に天皇家の先祖の名前をつけて、「私はつなぎ」「私はつっぱり」「私は種」「私は苗代」というように親神の守護を表わす役割を与えました。 その人達に、

「あんたは、百姓やけれどイザナミやで、イザナギやで」

というように「みこと」を取ってしまうことによって、イザナミもイザナギも皆人間なのだ、人間なら、それぞれの持ち味を出してたすけ合わなくてはならないと教えたのです。

ところが日暮宥貞は、親神のそれぞれの働き(守護)に皇祖神の名前をつけたのだから、これは守護神であると考えたのです。それで、転輪王を守る守護神として、竜神五対からなる十柱の神の絵を描いているのです。

また、天体についての説教が入って来たので、それまで陰・陽を説明していた話まで混乱してしまいました。

かぐらづとめ、、、、、、のお面の口の開閉で表わしていたことや、陽が天であり、大竜であり、男であって、陰は地であり、大蛇であり、女であることまで狂って【原文ママ】しまったのです。

教祖は、天を「すいき」、地を「ぬくみ」と教えて下さったが、これは昔から考えられていた、陰陽観と同じことなのです。

易経の中には、ぬくみ、すいきについて触れられてはいませんが、天は「すいき」、地は「ぬくみ」であることは、地上5千メートルに氷点下45度の寒気団が居座っていても、地下1メートルにある水道管は、凍らないということからも今の人ならすぐに理解できます。

しかし、ここに月様、日様という天体を持ち込んでしまったのが勘違いを起こす原因になりました。 冷たい方が月だから男なのだろう、暖かい方が日だから女だろうと思い込んでしまったのです。その結果、それまでの陰陽の考え方と全然合わなくなりました。昔から太陽は陽、月は陰です。 これを太陽・太陰といい、それを基にした暦が太陽暦・太陰暦であることからも分かります。

太陽は陽に決まっているのに陰になり、月は太陰で陰に決まっているのに陽になってしまうという、おかしな間違いが、この時に起こりました。それ以来、元初まりの話や神の守護の説き分けも、全部混乱して今に至っているのです。

教祖は、この重大な間違いをお叱りになったのです。心を入れ替え、たすけ一条の心を定めて世直しを目差すおつとめ、、、、を教えたのに、星曼荼羅を飾って拝み祈祷をするかんろだいづとめ、、、、、、、、に歪めて、皆に押し付けたことを立腹されたのです。これが現在でも教団の教えの基になっているのです。教祖は秀司に対して、「この度のつとめ一条止めるなら、名代なりとすぐに退く」という言葉ではっきりと、「おまえは本当に通り違いをした、もう死んでも当然だ」と言われたのです。その言葉で秀司は絶望し、心挫かれて、直ぐに亡くなったのではないかと思われます。

秀司は、転輪王講社を作る時、まさか自分が先に倒れるなどとは、夢にも思っていなかったでしょう。教祖の下に寄り来る人達を自分の配下に治め、好い目をみようとした秀司の心が、大きな間違いを、後の世まで残してしまったのです。

3-17 転輪王講社 
第3章 教祖の道と応法の道
→ 3-19 転輪王講社の壊滅


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