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手帳

毎年、年末が近づいてくると、翌年の手帳を買う。ここ数年使っているのは、1日のスケジュールを縦に時間ごとに記入できる、バーティカルタイプ。表紙は大抵、黒を選ぶけれど、数年に1度、アイボリーの気分になるときもある。

使い慣れている手帳は安心感があって良い。最初の部分に月ごとのスケジュールが書き込める見開きスペースがあり、そのあとに、1日ごとのスペースが続く。年初には、1番下にある余白部分に、その日に食べた食事を記録したりもするが、面倒になってたいてい1ヶ月しか続かない。

手帳の最後のほうにはフリースペースがあり、そこには本を読んでいて心に留まった言葉や、観たい映画、行ってみたい店のリストなどをメモしている。表紙と裏表紙についているポケットには、友人から届いたポストカードや気に入りのショップカード、洋服のタグなどを挟み込み、ときにはそれらを栞がわりに使ったりもする。

そういえば、誰かが言っていた。「手帳は毎年、少しずつ大きいものに買い替えると、仕事が年々増えていくんだって」。「そうなのか」と思ったけれど、毎年、律儀に同じ大きさのものを買い続けている。バッグに入れてもかさばらず、小さすぎないものを。

社会人1年目のとき、Quovadisの黒い、大きな手帳を購入した。当時はデザイン事務所の社長秘書的な立場にあり、社長はもちろん、ほかデザイナーのスケジュールも大まかに把握しておく必要があった。たくさん書き込みができるようにと、手帳はあえて大きいものを選んだ。

仕事のできなかったわたしは、月曜日の朝に行われる全体ミーティングの際、みんなの予定を聞き取るだけで精一杯だった。聞きなれない専門用語が飛び交うものの、あまりにもわからないことが多かったので、途中で止めて聞き直すことができなかった。少しでも、邪魔になることはしたくなかった。

やらなければいけないことがたくさんあり、いつもあたふたしていたような気がする。わからない言葉をとりあえず手帳に書き込み、後で調べようと思うも、次々と新しいやることが出てきて、追いつかない。「これ、なんて読むんだろう」と、自分でも判読不能の文字が並んでいることも少なくなかった。

とはいえ、決して事務所全体の雰囲気が悪かったわけではなく、むしろ、ほかにはなかなかないような、スタッフを思いやる職場だった。ただ、わたしが一人であたふたして、心をすり減らしていただけだった。

その職場は、1年も経たないうちに辞めてしまった。いま思うと、とても惜しいことをしたと思うのだが、当時は続けることができなかった。次第に休みがちになっていくわたしを、社長と奥さんは温かく見守ってくれた。そして、「将来的には育休なんかも取れるようにするから、うちで長く働いて」とも言ってくれたのに。

先日、実家の荷物を整理していたら、段ボールの中から当時使っていた手帳や資料が出てきた。分不相応にも思える、黒い大きな手帳。20年ぶりの再会だった。几帳面な文字から、当時の緊張感が伝わってくるような気がした。社長の顔が大きく載った雑誌もあり、ページをめくっていくと、事務所のみんなの笑顔があった。

「もし、あのままあの場所で働いていたら、いま頃どうなっていたのだろう」と、考えることがある。いろんな選択肢の中から、いまの自分を選んで生きてきたのだから、考えてもどうしようもないけれど。いまの現実に不満があるわけではまったくなく、ただ、いまここにないものに思いを馳せるのは簡単だからという理由だけで。

来年から、仕事の方向性を変えようと思っている。過去にできなかったことを数え上げるのではなく、いまの自分にできることをただ信じて、将来の自分へと繋いでいきたい。

結局、あの黒い大きな手帳は捨てることができず、そのまま段ボールの中に戻した。いつか、手放せる日が来るとは思うけれど、まだそのときではないようだ。来年用には、少しだけ大きい手帳を買ってみようか、と考えている。