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呼ばれる場所、つながる人

20年以上も前のこと。奈良の天河神社にお参りに行くことにしていた。ここは誰もが行ける場所ではないと聞いていた。天河の神様に呼ばれないと行けないらしい。近くの宿に電話して予約をすると、最後の1室が空いていると言う。運がいい。これはきっと行けるぞ、と心が浮き立った。

出発当日の早朝に、めずらしく叔母(父の妹)から電話がかかってきた。「お父さんが亡くなったから、急いで帰ってきなさい」。旅行に出る準備はしていたので、急いで飛行機のチケットを取り、荷物を抱えて家を飛び出した。空港で待つ間に、予約していた奈良の宿に電話をし、事情を話してキャンセルした。

そのときは葬儀のことで頭がいっぱいで考える余裕がなかったけれど、後になって「あぁ、今回は天河神社の神様に呼ばれなかったんだな」と思った。

その数年後、体調のことなどもあり、友人からとあるお坊さんに会いに行ったらどう?と言われたことがある。そのお坊さんはいろいろなものが「見える」らしく、さまざまな悩みを抱えた人が彼に会いに行くのだそう。「ただし、彼の携帯電話は縁がある人しかつながらないから。もし電話がつながらなかったら諦めてね」とも言われた。

携帯がつながらないとは、どういうことだろう。着信履歴が残っているはずだし、かけ直してくれさえすれば、つながらないことはないはず。そう思ったものの、天河神社のこともあり、一か八かという気持ちで電話をかけた。

すると、電話はすぐにつながり、トントンとお会いできる日程が決まった。当日、お会いすると「きっとご縁があったんですね。誰もがここに来られるわけではないですから」と言われた。そういうことがあるんだな、と不思議に思った。

先日、山登りをしたあとにどうも膝の調子が悪くて、と友人にこぼしていた。そして、彼女がお世話になっている鍼灸師の先生を紹介してもらえることになった。友人から先生のLINEの連絡先がポンと送られてきたので登録しておき、メッセージを送った。けれど、3日経っても既読がつかない。

LINE電話に電話してみても、まったくつながらない。これはどうしたものかと思い、件の友人に連絡してみようと思ったけれど、「いや、これはもしかしたら診てもらうタイミングではないのかもしれない」と思いとどまった。

場所でも、人でも、モノでも、縁がなければつながることはできない。反対に、縁があれば、どんなに難しく思える状況であってもすんなりとつながってしまうものだ。鍼灸師の先生に診てもらうのは今ではないのかもしれない。タイミングが合うときであれば、すんなりと連絡がつくのではないか、という気がした。

人間関係全般にいえることだけれど、無理したり、焦ったりしてつながっても、いいことはない気がする。つながりたいと思う相手とそもそも立っている土俵が違うと、つながることなんてできないのだから。

鍼灸師の先生とはいつつながることができるだろう。でも、つながることができる頃には、膝の調子はすっかりよくなっているかもしれないけれど。