見出し画像

思いやりに満ちた人

先日、知り合いを招いてうちで食事をした。誰かを招くとき、つい料理をつくりすぎてしまう。数日前からなにをつくろうとかと考え、その日は6品(鶏と蓮根の水餃子、夏野菜の白味噌煮込み、じゃがいもの酢の物、トマトと茗荷といちじくのサラダ、緑豆のお粥、かぼちゃの蒸しプリン)とぶどうを用意した。

実は、頭に引っかかることがあった。それは「彼女が基本的に菜食をしている」らしいことだった。以前、そのような話をしていたような気がするけれど、外では肉や魚も食べると言っていたような。本人に事前に確認すればよかったのに、それを怠ってしまった。

当日、到着したばかりの彼女に確認すると、やはり肉や魚は普段、まったく食べていないという。「あぁ、しまった」と思った。その日は肉を使った水餃子を用意していると話し、無理して食べないでいいから、とも伝えた。そして、私はその足で水餃子を茹でに台所へと向かってしまった。

彼女は用意しておいたきゅうりのソースをたっぷりとかけて、「美味しい、美味しい」と言いながら、水餃子を7つほど次々と食べていく。その様子を見ながら、「口に合ったのだな、よかった」と、ほっと胸をなで下ろした。

しかし、彼女が帰ったあと、モヤモヤが残った。目の前に熱々の水餃子が出されてしまったら、いくら食べなくてもいいと言われても、せっかく用意してくれたのだからと、箸をつけずにはいられなかったのかもしれない。

準備しておいた水餃子は茹でずに取っておいて、わたしが夕飯に食べることだってできただろう。品数が少なくなると相手に物足りなさを感じさせてしまうのではないかと心配し、結局は自分を満足させるために、無言の「できれば食べてね」を押しつけてしまったのではないかと後悔した。

品数(体裁)を気にするのではなく、相手の生活スタイルや主義などを丸ごと受け止めてあげることこそが、本当の思いやりだろう。わたしはそれを無視し、自分の理想の展開(できれば一緒にすべての料理を食べること)に持っていっただけなのかもしれない。

もちろん、相手も大人なのだから、自分の考えで食べたからそれでいいじゃない、と片付けることだってできる。考えすぎなのかもしれないけれど、今後は我が家で食事をするときには、相手の食の好みに寄り添おうと思った。

そういう私も、10年以上も前の一時期、菜食をしていた時期がある。当時は人と一緒に食事をすることがただただ難しく、肉や魚を控えているとは言いづらかった。だから、なおさら、彼女の気持ちを汲めなかったことが悔やまれる。

笑顔で水餃子を頬張っていた彼女の姿を思い出すと、なんと思いやりに満ちた人なのだろう、と思ってしまう。


この記事が参加している募集