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フットパス

「ロングトレイルパス」という言葉を知ったのは、小島聖さんの著書『野生のベリージャム』の中でだった。彼女は全長340kmもある北米のトレッキングコース「ジョン・ミューア・トレイル」を、20日間歩いた。ピークを目指す登山ではなく、長距離自然道を歩く旅。湿原や湖、花崗岩の山々といった景色に出会える、ハイカー憧れのトレイルだ。

「歩く」という行為に魅せられた人は実に多い。わたしも一生に一度は海外のトレイルを歩こうと決めているが、まずは国内の自然道から。身近なところでは、鹿児島の霧島トレイルや国東半島ロングトレイルなどが魅力的だ。

イギリスで暮らしていた頃、よく歩いたのが「パブリック・フットパス」。イギリス全土を20万km以上にわたり張り巡らしている自然道だ。コッツウォルズや湖水地方などの観光地にもあり、のどかな景色を眺めながら自分のペースでのんびり歩くことができる。

丘陵地や公園、用水路沿いなどのほか、農場や私有地を通過する道もある。洗濯物が干してある個人宅の庭を通過するときには、果たしてガイドマップは合っているのかと、少し緊張しながら歩くはめになる。家の住人と鉢合わせたこともあったが、「Enjoy your walk!(どうぞ楽しんで)」と快活な挨拶を受け、イギリスの人はなんておおらかなのだろうと思った。

湖水地方に友人数名と旅したとき、夕食前に、大きな湖の周りのフットパスを愉しもうということになった。深い森の緑と夕日が湖面に映り込み、言葉を失うほど美しかった。一緒に歩いたのは4名で、その中に新聞記者をしている男性がいた。

休憩時、彼はリュックサックから1冊の小さなノートを取り出し、ボールペンでなにか書きつけていた。普段はふざけて周囲を笑わせてばかりいる人だったが、そのときの顔は真剣そのもの。横からチラリと覗いてみると、ノートは細かい字でびっしりと埋め尽くされていた。

「何を書いているの」と尋ねたが、「秘密」と言って教えてくれない。そういえば以前、「仕事柄ノートは常に持ち歩いていて、少しでも気になることがあったら書き留めるのが習慣になっている」と話していた。

それ以来、わたしもバッグの中には常にメモ帳を忍ばせておくようになった。あとで見返してみると、読みたい本やいつか行きたい店の名前などに混じり、なにを意図して書いたのかまったくわからない単語の走り書きもいくつか見つかる。それを書いたときのわたしと、いまここにいるわたしは、まるで別人のように思える。

友人たちとの旅から2ヶ月後。件の新聞記者から手紙が届いた。なかには新聞記事のコピーが入っていた。それは、地方紙の誌面を小さく飾るコラムだった。彼があの日フットパスを歩き、なにを感じたかが書いてあった。また、最愛の息子を2年前に亡くしていたこともコラムを読んで初めて知った。

心の中でくすぶっている葛藤や後悔は、景色の見え方をも変えてしまうのだろう。わたしにとってはただただ美しかったあの場所も、もしかしたら彼の悲しみを募らせたのかもしれない。