リワーク日記135 仕事に自分の存在意義を賭ける!のは避けたい
先週降りかかってきて私の憂鬱のもとになっていた無理難題案件は、前回記事での宣言通り上司を巻き添えにしながらどうにかゴールへの道筋をつけることができました。やっぱり私はスピードを求められる仕事がとにかく苦手です。ゆっくりのんびりやりたいのに急かされるのはペースを乱されて本当に嫌な気分になります。
それでも1人きりで抱え込むことなく課題をさばけたのは良かったです。やむなくスピード勝負の土俵で闘わざるを得なくなってしまった場合には、上司を道連れにして1人で無理せず対処するという立ち回り方を習得できました。こうしてまたひとつ苦手な場面への対処法の引き出しが増えました。
しかしながらまだまだ苦境の秋は続いています。支払いをすっぽかしてしまったクレカ会社から電話が毎日かかってきたり(全然出てなかったけど…悪質な利用者…)、キーボードのキーキャップが知らぬ間に外れてどこかへ消失したり、会社のビルに入館する時に必要なカードキーを忘れて1日入退館に支障をきたしたり、今年の残りの有給休暇が0日になってしまったり、リワークの面談の予定を忘れて無断欠席してしまってスタッフさんから電話が来たり…。もはや展開の速さについていけず足がもつれて盛大に転んでいるような状態です。疲れていますね。
何かを忘れてしまうというミスが増えているというのは、おそらく余裕を失って慌てている状態なのでしょう。忙しすぎ、働きすぎの状況になりつつあることが示唆されます。このままだともっと大きなアクシデントが発生する可能性が高いです。ここら辺で一度ペースダウンする必要がありそうです。来週は残業ゼロを目標にします。
残業ゼロで帰宅したら、子猫たちといっぱい触れ合います。たかだか会社ごときに、可愛いニャンズが私の膝に乗って甘えるという神聖な時間を邪魔する資格などあるはずないのです。私の人生の使命は仕事で大事業を成功させることではありません。ニャーニャーさんたちに奉仕して彼らを幸せにすることです。
ところで、このリワーク日記をずっと読んでくださっている方はそろそろ疑問に思われるかもしれません。「苺の庭文庫は、本当に仕事にやりがいや自分の存在意義を見出そうとはしないのか?1日の大半の時間を費やす仕事をぞんざいに扱って良いと本気で考えているのだろうか?」と。
もしかしたら、こいつはそういう人間だからと疑問にすら思わないかもしれませんが、しかしこれはとても良い疑問です。確かに、いくら仕事の意義を小さく見積もって軽視するかのように振舞ったとしても、平日の昼間をぎっちり仕事で埋め尽くす毎日を過ごし、その活動によって生活を成立させ、それが何十年も続くわけですから、嫌でも仕事に何らかの意義を見出さなくては心が持たないのは間違いないからです。中には、仕事中は完全に自分の心をOFFにして無感情で仕事を機械的にこなせる人もいるのかもしれませんが、一般的な人間の心はそうはできていません。
では、私にとって仕事とはどのような位置づけかというと、「私の人生の使命を大きく阻害しないもので、かつ私の価値観と興味関心に反しないという条件を満たしたうえでの、生活資金を稼ぐ労働活動」というものです。
つまり、社会的意義の大きさも著名な事業であるかどうかも、また大きな経済的な成功を目指せるものかどうかも全く関係ありません。自分が働いたことが社会にプラスの影響を与えるかどうかも、仕事を通して社会に自分が生きた爪痕を残せるかどうかも、全く関心がありません。仕事の流儀や信念を貫くことも、こだわりを持って高みを目指すこともありません。私のプライベートを邪魔さえしなければどうでも良いことなのです。
仕事にプライドを持って働いている方々の中には私が許しがたく思える方もいらっしゃるでしょう。ですが、何度も書いてきている通り、私にとっての人生の使命は「愛する家族と動植物に囲まれて、大好きなアートと音楽と鉱物を愛でながら穏やかに暮らすこと」です。それこそが私の人生の最優先事項です。
人間は人生の中で多くのことに資源を注ぎ多くのことを成し遂げます。しかし全てに時間や労力やコストを等しく配分することは不可能です。優先順位をつける必要がどうしてもあるのです。仕事の優先順位を高く設定して自らの成長や成功や誇りや存在意義を賃金労働に期待して人生の資源を集中投資する人がいる一方で、私は仕事の優先順位を低く設定しただけのことです。どちらがより自分にとって重要かを考えれば自ずと答えが出ます。ただ単に1日の3分の1もの時間を占めるからというのは、仕事を最優先に位置付ける理由としては弱すぎます。1日のうちの8時間を仕事が占めているのは、そうなるような歴史的な経緯があったからであって、決して私自身が1日8時間を労働に費やしたいと望んだ結果ではありません。
そもそも、自らの存在意義や誇りやこだわりまでも労働に求めるのは、労働への過剰な期待ではないでしょうか。「卵を一つのカゴに盛るな」という格言通り、労働という一つのカゴに生活資金稼ぎ以外のあれやこれやを詰め込んではいけないと私は考えています。私にとっては、私の人生を象徴する最も重要なカゴは別にあり、そのカゴに投げ銭するための資金調達手段としてのカゴが労働です。そのような位置付けだということは、「仕事がプライベートを侵害しないこと」という条件が仕事に求められるのは当然です。ですから残業は御法度です。
ついでにメインのカゴに投入する資金の調達先が私個人の価値観や興味関心に沿わないものであるというのは気分的にも論理的にもNGです。例えば殺虫剤開発の仕事で稼いだ金で趣味の昆虫飼育を楽しむ、みたいな矛盾含みの生活スタイルは私の頭ではとても処理しきれません。動植物や自然との共生に背を向ける産業、アート性のない仕事、人を使い捨てにすることで成立している事業などは敬遠してしまいます。
それから、我慢し難い困難な仕事だが大義や天下国家のために頑張ろう、とかいう滅私奉公精神なんかも私には微塵もありません。ですから、国家規模の事業や世界にインパクトを与えるビッグスケールな案件、人々の生活を一変させるような最先端の大変革、市場トップを争うようなハイレベルなプロジェクト、関わるプレイヤーの数が膨大な一大事業、その成否で命を落とす人が出るような責任重大なビジネスなどはお断りです。制御不能な恐ろしさを感じるだけです。もっとスケールが小さくて、人間の手に負える規模の事業で、定時外と休日の時間を健康に元気に過ごせるだけのエネルギーをきちんと温存できる仕事であることが重要なのです。
その意味で、今の仕事はかなりいい線を行っていると思っています。アートに関わる要素があり、事業自体が環境配慮につながる要素があり、事業規模も手に負える程度のサイズだと感じられます。何より、子供の頃にずっと楽しんでいた図画工作をプロフェッショナル化したような仕事なので、私にとっては馴染み深い遊びの延長線上にあって安心できる上に、内なる子供の自分も満足させられるのです。人使いはやや荒めで給料も低めですが、前の会社よりは余裕とぬるさがありますのでそこは高評価です。完璧ではありませんが、私の価値観も人生も邪魔しません。
つまり私の場合、仕事に自分を合わせて自分を成長させるのではなく、私の個人的な価値観や興味関心に仕事の方を従わせるように試みているのです。ただし自分の価値観に沿っているとしても、あくまで生活資金稼ぎのための活動ですので、仕事にのめり込んだり仕事で自分のしたいことを実現させようとすることは厳禁としています。ここの順序や境界をあやふやにしてはいけないのです。あやふやにした途端にブラックな労働環境を受け入れる素地ができてしまいます。
自分の価値観に合っていてプライベートを邪魔せず、好きな遊びの延長で内なる子供の自分を満足させられる仕事だなんて、よく考えたらそうはないでしょうね。安めの月給を受け入れたり、無茶苦茶を言う上層部の存在を黙認する必要はありますが。まあ、世の中の大抵の仕事は労働負担に見合う水準に達さず上層部はサイコパスと相場が決まっているのですけどね。全てを手にすることは誰にもできません。
こう言うと、もしかしたらそれは、天職?と思う人もいるでしょうけど、残念ながら私は日本で10万人中8位クラスの社交性の低さ、1万人中26位クラスの活動性の低さ、そして1万人中108位クラスの主体性の低さを誇る相当な内気なのに、なぜか営業職をやらされている時点でこれを天職とは到底言えないのです。ただ、その悪条件の中ではまだマシな椅子をかろうじて確保できたとは言えるでしょうから、天が采配した結果ではあるのかもしれません。生かさず殺さずのバランスが絶妙である点はやはり人間業とは思えません。
きっと我が家に子猫たちを派遣してきたのも天の企画なのでしょう。素晴らしい企画です。
そういうわけで子猫は神様が私に送り届けてくださったというのが今回の結論です。あれ?これで良かったんでしたっけ?まあ良いですよね。ニャンコさんたち可愛いし。ということで今回はここまでです。ニャンコ可愛いよね!という方はスキとフォローをお願いします。次回も楽しみにしていてください!