見出し画像

リワーク日記114 仕事できる人じゃなくちゃいけませんか?

さすがは繁忙期。油断していたら同時多発的にトラブルが勃発して気絶しそうになった6月最終週でした。

相変わらず毎日間違えたり忘れたりして大騒ぎしながら仕事しています。「できない!!」とか「間違えた!!」とか口に出して騒いで、その度にヘルプを求められる周囲の人たちは大変でしょうけど、これは多分永久に変わらないでしょう。変えるつもりもありませんし。

私は仕事を1人で完結できる人になろうとは思っていません。そういう考えを捨て去りました。綺麗さっぱり。先日のリワークの面談でもそんな話をしました。社会復帰を成功させるために私にとって最も重要な課題がこれです。

仕事の中には得意なものもあれば苦手なものもあります。自分が苦手なものは、得意な人にやってもらうのが一番です。わからないものはわかる人に頼るのが一番です。できないことはできる人にお願いするのが一番です。何でも自分でやろう、やれるようになりたい、やるべきと考えることが間違いです。誰もが多能工になれるわけではないのです。自分が得意なことに特化して良いのです。

ですから、何でも1人でやれと言われるような職場や、周囲の人に支援を頼めない職場は、私からすればブラックでしかありません。そして私自身も自分1人で抱え込まずに支援を求められるようになることが大事ですので、今まさにその実践の中で上手に助けを求める技術のレベルアップを図っている最中です。

実はこの技術の不足は、私のこれまでの人生を大きく制約してきたと思うのです。思えば、小学1年生の頃からわからない問題があるとフリーズしてしまい、先生に聞くこともできず自分1人であれこれ考えて苦しみながら、ひたすら得体の知れない呪文が羅列されている教科書を見つめ、答えが見つかるはずのない自分の心の中を覗き込んではため息をついては授業終了の鐘がなる時間を待っていました。

どうやら先生からも、わからないことがあったら質問するなどのアクションを起こすようにと言われていたようなのですが、それができれば苦労はしません。小学生は、自分が何のどこがどう分からないかも分からないのです。そもそも学校や教科書を駆動させているオペレーション・システムは、あまりに自分の頭の中のそれとは違いすぎて、擦り合わせて互換性を確保するのに多大な時間と労力を要しました。結局、分からないことやできないことに直面した時にどうすれば良いのかを、学校では学ぶことができませんでした。苦手な算数の問題を誰か得意な人に代行してもらうなんて学校では不正でしかありませんから、その方法を習得する機会はありません。

一度だけある先生が授業中に「宿題を親にやってもらうことは必ずしも悪いことではない。一つの仕事の仕方としてアリだ」と言ってくれていましたが、その時には私も含めて教室の誰1人としてその意味を理解できていませんでした。みんな互いに顔を見合わせて「この先生は一体何を言い出したんだ?」とざわついていました。今にして思えばいわゆる「上司を使う」という仕事術ですが、教育現場でそれを口に出せる教員はなかなかいないでしょう。そんな話を聞けたのは後にも先にもそのただ一度だけだったのが惜しまれます。

前の会社も、面倒事は下っ端が動いて整地して綺麗にお膳立てして、上には好ましい成果だけを献上せよという空気の会社でしたので、「抱え込む社員」は都合よく使いやすかったのかもしれません。このダイハツみたいな会社と社員の関係は明らかに不健全です。そんなこんなで結局問題を抱え込む癖はこの年齢になるまで変わることなく、とうとううつ病になるまで放置してしまった格好です。

自分で抱え込んだ問題が耐えられる程度の重さなら良いでしょうけど、人にはそれぞれ耐荷重量があります。それを超過したら心身が壊れてしまいます。昇進するほど持たされる重量は増えますし、昇進しなくても個人プレーに近づくほど重量はあっという間に増えますので、自分の耐荷重量の設計値をあらかじめ知っておくことは非常に重要ですね。

よく学習塾が広告で自信満々に誘ってくる「苦手克服」なんて幻想でしかありません。私の場合、小学生の時に苦手だったものは大人になった今でもしっかり苦手なままです。一方、得意だったことやとっつきやすかったことは大人になった今でも、いつまでもやっていられます。結局、そういう昔から得意だったことをずっとやっているのが本人にとっても、会社にとっても幸せなのです。その状態に近づく第一歩こそ、苦手なことや分からないことにぶつかった時に大騒ぎしてSOSを周囲に求めることです。当然、周囲の人がSOSを発していたら私が力を貸す番です。

まあ、ミスをしたりつまづいたとしても、自分が仕事ができない人間だと悲観せず、苦手な部分を遠慮なく得意な人にパスして代わりにシュートを決めて貰えば良いと考えるのが一番です。自分が仕事ができない人間だったとしても、最終的にシュートが決まって得点できればそれで良いわけですし、そもそも仕事ができる人間になるために生まれてきたわけではありません。仕事できるランキング最底辺で何の問題もありません。

それにしても、世の中には「仕事ができない人」を何のためらいもなく公然と見下す言説が多すぎではないでしょうか?仕事ができないならどんな不利益も不名誉も損害も甘んじて受け入れて然るべきとでも言わんばかりの勢いです。

たとえ1秒でもそんな言説に耳を貸す時間を取るのは、貴重な人生の時間の無駄遣いです。何ですか、仕事ができる人って?世の中の全業務を1人で完璧にこなせる人なんていないでしょ?誰もができることとできないことを抱えているのですから、そんな区分けに何の有用性があるのでしょうか?

注目すべきは自分にとって「できる仕事」「できない仕事」の方です。何ができて何ができないか。そして、その「できない仕事」ができるのは誰か。その方が100倍重要です。会社とは、できる仕事とできない仕事を社員間で分け合って事業を営む人的ネットワークと分業の形態のことです。そうした分業を設計して人的ネットワークを組むのは会社の経営そのものです。仕事ができる人とかできない人とかいうのは、本来の会社の主旨からしてズレた見方です。自分ひとりで全てはできない人たちが集まって一つの仕事を完成させるのが会社だからです。

少数精鋭もエリート部隊も、落ちこぼれ集団も掃き溜めも、全ては分業の成否とネットワークの最適性の状態を表すにすぎません。そしてどんな組織も、常に分業とネットワークの最適性と健全性は変化します。互いを安易に貶め合うような発言は慎むのが賢明ですね。ついでに自分自身を貶めるような考えも速やかに手放したいものです。

ということで今回はここまでです。仕事で疲れた日は帰りに美味しいものを食べて心を満たしてリセットして繁忙期を乗り切りたいです。では次回もぜひ楽しみにしていてください。

いいなと思ったら応援しよう!