リワーク日記141 うつ経験者が道標にする自分の中の「社会不適合者」
信じがたいことですが、新たに購入したばかりのスマートフォンを紛失しました。前任のスマートフォンさんの逝去からわずか1週間で新任のスマートフォンさんも私の元から旅立ってしまったのです。ショックです。
どうなっているのでしょうか。もう呪われているとしか思えません。前回の記事で「喪失と前進」なんてカッコつけた結果がこれでは様になりません。今までスマホを紛失するなんて一度もなかったのに…。本当に「喪失」しすぎではないでしょうか。
気を取り直して捜索活動をすることにしましょうか。
スマホなくしてかわいそう!って思った人は全員スキとフォローしてください!
さて、自分の中の割り切れず辛くて厄介で手を触れたくない部分こそが実はその人の本質的な中身だったりします。傷つき歪みねじれ破れて、人は深みを持った優しさをまとうようになるのだと思います。
多くの場合、その一筋縄では行かない自分は他者や社会と摩擦を起こします。なんでそんなことでキレてるんだよとバカにされ、そんなのではやっていけないぞと否定され、あるいは知らぬ間に誰かの神経を逆撫でし怒りをぶつけられ、その後で別の人からかわいそうだけどあなたも注意しなさいとたしなめられます。社会で、自分の中の「問題児」の居場所がなくなればなくなるほど悲しく、追い詰められた気分になります。
私は成長の過程で一旦はその「問題児」の自分を封印して、社会に合わせてみることにしました。社会がそう言うには何か深い理由があるからに違いない、自分はまだ未熟で勉強不足なためにその深い理由が見えていないに違いない、ならばせめてその理由が見えるようになるまでは形だけでも社会に合わせた方が無難なはずだ、と考えたからです。
今ならこう断言できます。その選択は大間違いだ、と。社会が「これが正しい」「こうあるべきだ」と言い張ることの中で、深い理由があるものは実のところそう多くありません。玉石混淆で、質の悪い石ころも大量に含まれています。私が迎合したものの中にはそうした低品質なゴミもあったわけです。それでは体調が悪くなるのも無理はありません。
そのことに確信を持つ頃には既に手遅れになっていました。結局は「問題児」を粗末に扱ってしまったことで事態は悪化してしまったのです。その「問題児」こそが私の「こうしたい」という最も強烈でエネルギーに満ちたマグマのように原始的な欲求だったのです。その純粋なエネルギーに蓋をしたわけですから時間と共に自分の心の中の圧力が上昇し、とうとう耐えきれなくなって破滅的な噴火を起こして倒れてしまったのです。
うつで休職する数年前に円形脱毛症を発症したのは、火山が内部圧力を逃すための小規模噴火のようなものでした。そのときにもっと根本的な対応をしていれば良かったのですが、残念ながら力尽きるまで私は自分の「本質」を「問題児」扱いするのをやめられませんでした。
扱いの難しい自分の本質と向き合うことは、決してその自分を無理やり社会の常識に合わせることではありません。合わせることなど不可能だということ、言い換えると自分の本質は社会不適合性が高いという事実を、何の味付けもすることなくそのまま了解し、自分の中にそんな厄介な自分の居場所を確保してあげることです。蓋をして隠すのでも、地下牢に閉じ込めるのでもありません。リビングのど真ん中にソファーを用意してあげるのです。
「問題児」が私の足を引っ張っていたのではないのです。社会から「問題児」だと思われないように取り繕う偽装工作が私の足を引っ張っていたのです。そんな偽装工作をして、私は一体誰を喜ばせたかったのでしょうか?一体誰が喜んだのでしょうか?誰にでも筆跡があるように、「そうとしかできない」こともあるのです。ときには社会の意に沿えないこともありますが、あたかも「自分は社会の代表だ」みたいな態度の人に気に入られることのどこに価値があるのでしょうか?私は嬉しかったのでしょうか?
偽装工作をやめ、これまで積み重ねてきた偽装をひとつひとつ外していくこと、これが私がこれまで無いことにしてきた自分の本質を救出する手立てです。社会との摩擦で負った傷に、偽装工作のために貼っていた絆創膏を剥がすのです。もしかしたら少し痛むこともあるかもしれませんね。でも心身のバランスを崩すよりはマシです。相手は所詮支離滅裂な社会です。現に日本国内で500万人もの人々をメンタル不調に陥れているのに、それでも平然としているような社会です。むしろまともに相手にしてはいけないのです。私が社会不適合なのではなく、社会の方が人間に適合的でないのです。だから社会にいくら忖度しても、私自身がご機嫌に生きることには永久につながらないのです。
「人の行く裏に道あり花の山」の言葉の通り、メインストリームが幸福とは限りません。社会にはメインストリーム以外にも道は存在しています。いつだって歴史の教科書はメインストリームの顛末しか教えてくれませんが、名もなき無数の生活道路がこの世界には張り巡らされているのです。不機嫌で横暴で没論理なメインストリームの人たちに愛想を尽かした人たちのための道です。自分の中の「社会不適合」な原始のエネルギーを素直に受け入れて生きようとする人たちのための道です。
もちろん世の中には自分の本質と社会生活とを見事に両立できる幸福な人たちもいます。そういう人を見ると私も羨ましく感じますが、残念ながら私はそうはできませんので、それとは異なる生き方を選択する方が合理的です。
誤解してはいけないことですが、それは私が劣っていることを意味しません。どちらが良いとかいう話ではなく種類が異なるだけです。横並びを優先するあまり、必ず不幸になると分かりきっている生き方をわざわざ選び沈んでいく人生を、私は高潔だとも美しいとも楽しいとも有意義だとも思いません。幸福の放棄と引き換えに得られるのが、横並びに由来する一体感のみって、取引として破綻しています。そんな取引で満足できる人が本当に羨ましいです。
そうは言っても、別にこの社会不適合の小道を進むのは世界史上で私が初めてではなく、別に心配することはないのです。超偉大な先達が大勢います。たとえば…、
全然心細くないでしょ。ザ・社会不適合者の代表格である芸術家の中でもトップを極めた人たちの言葉は見事に人生の本質を突いています。ダリも岡本太郎も死後に評価された不遇の芸術家ではなく、生前から高い評価を受けながらそれにも関わらず社会に迎合せず、一貫して破壊的なアートを生み出し続けた超個性的な人たちです。
ここまで突き抜けられない凡人だからこそ、私は簡単に社会にねじ伏せられ苦しんでしまうとも言えますが、私のような社会のメインストリームから外れた人の中には、莫大なクリエイティブなエネルギーが潜んでいるのだと私は思っています。手加減しないと本当に社会の姿が変わってしまうかもしれません。
そうですね。小さくても成就しなくても「問題児」の自分が指し示す方向に素直に進みましょう。力まずに。猫ちゃんたちと一緒に。
ということで今回はここまでです。次回も楽しみにしていてください!