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リワーク日記133 無意味な上下関係って最悪。

猫を飼い始めると、みなさんのご想像の通り、猫と人間の間には明確な主従関係が発生します。もちろん猫が主人で人間が従者です。猫様に住んでいただいているのです。猫は人の言うことなんて聞きませんし、猫は自分が何を欲しているかはっきり知っており、その要求を必ず通す固い意志を持っています。うまく猫と共生しようと思ったら人間が猫に従う以外にはないのです。

犬の場合には人間が優柔不断だったり受け身の姿勢だと、飼い主の迷いを感じ取った犬が「自分が家族を守らなければ」と決意してリーダーとして振る舞うようになります。その結果、他の犬や人にすぐ吠えるなど人間の制御が効かなくなります。一般的には、人間の側が責任ある保護者としての明確な意志と行動を見せることが犬との共生には必要です。

猫はその逆です。猫は生まれながらの王侯貴族です。人間は猫に指示を出す立場にはありません。逆です。ただ護衛兼執事として付き従うのみです。「おい、じい。もうメシの時間だぞ。メシはまだか」「はい、坊っちゃま。ただいまお持ちします」という間柄が最も適切かつ健全なのです。猫を終生お世話するという責任感は必須ですが、自立心の強い猫との暮らしには感情的な負担感は少ないため、ストレスを感じやすい人には猫との相性が良いと言う研究者もいます。

私も幼い保護猫たちとのそんな上下関係を楽しんでいます。子猫たちは日々さまざまな器物破損容疑で事情聴取されていますが、慎重かつ徹底した捜査の結果、可愛いので全て無罪放免になっています。

さてそんな私ですが、人間同士の上下関係は大嫌いです。

儒教の影響が色濃い日本では上下関係が重視されますね。親子関係、兄弟関係、師弟関係、先輩後輩関係・・・。日本人は、あらゆる人間関係を上下関係へと変換して理解しようとします。まるで人間関係とは序列関係でありそれ以外は存在しないのだと言わんばかりに。

私が最初に違和感を覚えたのは、中学校に入学した時です。

なぜか先に入学した2年生、3年生が当然のように上から目線で接してきて、1年生は彼らを「先輩」と読んで敬語を使い何でも言うことを聞くべしという掟が存在していたのです。2年生も3年生も人間でしょう?猫ではなくて、人間の子供。なぜそんな上下関係が存在しているのでしょうか?今でも謎ですが、なぜかこの掟は高校にも大学にも、職場にも存在しています。

この先輩後輩関係ってどういう原理なんでしょうか?なぜ先に生まれたというだけで、猫のように振る舞うことが許されるのでしょうか?「先輩」は可愛い猫ではなく人間です。可愛くもない人間。しかもたった1日生まれる日が違うだけで学年が変わって、有無を言わさぬ上下関係が発生するのです。そしてそれが一生付きまといます。この不可解なルールを説明できる人、います?

ある説明によればどうやら、生きた年数の差は経験の蓄積の差であり経験の蓄積が人間性の差であり、年下の人間はその差に敬意を払うべきと言う理屈のようですね。でも、それって年上の人の言いなりになれって話に接続しますかね?敬意を払うことと言いなりになることとでは、人間関係の質がだいぶ違います。

もちろんこの上下関係は、年上の人間には経験の浅い年下の人間を教え導く責任があるということと本来はセットになっています。しかし、それなら年齢に関係なく経験のある人が経験の浅い人を導けば良いだけではないでしょうか?現にそんな責任を引き受けている人なんて現実にどれだけいますか?「お前たちがちゃんとしてないから、代わりに俺たちが怒られたじゃねぇか!!」と後輩に当たる先輩による「指導」ならイメージができるのですが、それが先輩の責任ある振る舞いなのでしょうか?つまり、年齢だけで上役に立たせて指導役を担わせるのには無理があるのではないかと私は思うのです。

要はひとくちに「先輩」と言っても未熟で横柄な人もいるという話です。でもそうですよねぇ、20代、30代だってまだ若く経験豊富とは言い難いです。未成年なら未熟で自分の感情コントロールが下手なのは当たり前です。ですから年齢を理由に上下関係を設定することには中身が伴っていないのです。こんなにもわずかな年齢差を絶対視する合理的な理由はなさそうだと私は思っています。あまりにも形式的すぎなのです。

ついでに言うと、「敬意を払う」方法が敬語の使用と言いなりになるということだというのも浅はかです。本当にそれが相手を敬うやり方として適切なのでしょうか?召使いにならなければ敬ったことにならないというのも、ずいぶん極端です。そんなに経験と人間性を備えた先輩が、自分より経験が浅くて未熟な人間を召使いとして扱うのは立派な行いでしょうか?年齢におごらず自分より下位の人間からも見習えることは見習う程度の謙虚さは持てないものなのでしょうか。私は「先輩」とやらの器の小ささが気になります。

長幼の序という秩序原理には、上下関係にあぐらをかいて「目下」の人に負担をかけるだけの器量の小さな「目上」の人を野放しにしてしまうという重大な欠陥があります。中身を見ずに年齢だけを見て態度を変えるべしとするからこうなるのです。何が良いことで何が悪いことで人間はいかに振る舞うのが善なのかを考え実践することをバッサリ省略して、年齢が上ならもう最善の判断と振る舞いが可能だと無条件でみなすのは、私から見ると手抜きです。自らの人間性がどれほど磨かれたものかを見つめ、相手がどのような人間で見習うべき点はどこかを何も見ずに、ひたすら先に生まれた人が相手なら敬語を使い、新たに生まれた人が相手なら敬意を払わないという態度を安易に選択するのですから。お笑いのネタにもなっていますけど、相手が年上だとわかった瞬間に敬語に切り替えるのって滑稽だと思いませんか?そして相手が年下だとわかった途端に図々しく偉そうな態度に変化するのも何なんでしょうか。相手に敬意を払う態度とは言えません。人間について、人間関係について何も考えていない安直な態度です。

皆さんよくご存知の通り、人間社会の中に上下関係を構築することで秩序をもたらそうというのが日本人の発想です。序列以外の秩序が存在するとは想像できないのでしょう。上位者に言われたことが正しいのだと無批判に受け入れることに慣れすぎているので、自ら善悪を考えることができず、法治よりも人治に流れがちなのが我ら日本人の習性です。年上の人に、「私は違うと思います」って言える人は少ないですよね。日本人に哲学が根付かないのも納得です。

先に生まれた者の豊富な経験に敬意を払い、新たに生まれた者の枠にとらわれない発想を尊ぶのがバランスとしては適度なのではないかと私は思うのですがどうでしょうか。

さて、私がこの上下関係が苦手なのは、自分を強く抑制する圧力として働くから、というのが率直な理由です。押し潰されそうになってとにかく嫌いです。そして前述した通り、理解可能な理由が示されずに「正しいのはこっち」「これをやれ」と言われることも多く納得度が低いのが不満です。年長者が誤っていても、年長者のメンツを守るか真実を守るかというくだらない2択が、事あるごとに話を不必要に複雑にするのもうんざりします。それが目上の者が重視する秩序の正体なのでしょうか。特に若いうちはひたすらに自分を蔑ろにされる経験しか、私はできませんでした。私にとって上下関係は、足を引っ張り私をがんじがらめにして苦しめる元凶でしかありませんでした。これのせいでどれだけの時間とエネルギーを浪費したことか分かりません。

それにしても日本人は本当に序列が好きですよね。何でもかんでも序列を作って、自ら喜んでそのピラミッドに組み込まれていくのですから。何が良いんでしょうか。序列は人を守ってはくれませんし、幸せにはしてくれません。言うまでもなくメンタルを病んで休職した時、序列は何の役にも立ちません。先輩も後輩も学歴も職位も意味を失い、みな等しくお薬を飲んで寝るのです。

そして猫に前ではみな等しく下僕です。人間同士でどっちが上でどっちが下とか、瑣末なことです。年齢とか入社年次とか関係なく、互いに対等に良い部分を認め合い、尊重し合えると良いですね。

ということで今回はここまでです。共感できる!という人はスキをお願いします。それは違うよと思った人も是非コメントで教えてくださいね!それでは次回も楽しみにしていてください。

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