お酒を飲んでたばこを吸って放射線を浴びて健康になりたい。
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この旅の目的の一つである、希望荘のケーブルカー。
エレベーターと同じ要領で下矢印の描かれたボタンを押すと、父子を乗せて下っていった車両(エレベーターではなくケーブルカーと称しているのだから搬器ではなく車両と呼ぶべきなんだろう)が折り返して戻ってくる。本当は複線で2台の車両がそれぞれ独立して動くようなのだが、片方の車両は点検中で動かない。じりじりと斜面を登ってくる車両をぼーっと眺める。錆びたカウンターウエイトが線路の下をすーっと下りていく。やはりエレベーターだ。
たかやまさん
「ラドンの泉は、地下1500mより湧き出る源泉を床下全面に張りめぐらせ、気化する際にできる低放射線のラドンを吸入することにより、細胞が刺激を受け、身体の免疫力や自然治癒力が高められる熱気浴施設です」
たかやまさんが暇つぶしにケーブルカーのりばの壁に貼ってある温泉の説明書きを読んだ。朗々と読む、その少し高く澄んだ声が空に吸い込まれていく。こんないい声が出るのに、普段ぼそぼそ喋っているあれはなんなのだろう。
たかやまさん
「ふむ。これの実際はどんな感じ?」
響かない声に戻ったたかやまさんが言った。わたしはケーブルカーの車両がじわじわと大きく見えてくるのを眺めながら考える。放射線、ラドン、吸入、細胞、刺激、免疫力、自然治癒力、熱気浴……、ん? あれ?
ささづかまとめ
「なんか、これから行くのって、いわゆる普通のお風呂じゃない感じですか?」
いちがやさん
「聞いただけだとよくわからないよね。サウナ?」
たかやまさん
「サウナか…」
たかやまさんが小さく身震いしたのが視界の端に映った。
いちがやさん
「ていうか、なんでふたりはなにも知らないの? ここにするとき多少調べたり…」
ささづかまとめ
「ケーブルカーのことは調べました!」
わたしはつい食い気味に自信満々で答えてしまった。ああ、いちがやさんの目が優しいなあ!
たかやまさん
「私は『温泉って言うなら温泉だろ』の精神」
ささづかまとめ
「あっそれそれ! それもあります!」
思わずたかやまさんを指さして同意してしまう。
いちがやさん
「ふたりとも何も知らずに飛びこんでいくのすごいよね」
いちがやさんは嫌味でなく本当に感心したふうに言った。こんなところまで連れてこられて、とりあえず感心しておくしかないのかもしれない。
ケーブルカーを呼び出してから2分くらいで車両が到着した。中年夫婦がおばあさんを支えながら下りてくる。たかやまさんが「こんにちは」とあいさつする。わたしといちがやさんもあいさつして、夫婦も返してくれる。おばあさんは歩くのに集中しているのか、わたしたちのことを一瞥するだけだった。入れ替わってわたしたちが乗車する。
乗務員はいない。乗り込んで下矢印が描かれたボタンを押す。ドアが閉まるとケーブルカーは静かに動き出す。すると車内に和風の音楽が流れ出す。下り側にデッキがあって外に出ることができるのが、ケーブルカーだとしても斜行エレベーターだとしても珍しい。せっかくなので少し窮屈だが3人で外に出てみる。
さわやかだが少し湿り気のある冷たい空気、秋の虫や鳥たちの声。ケーブルカーはゴトゴトと小さな音を立てて杉林の中を下っていく。そして着いた先には温泉(お湯に浸かれるのかどうか知らないが)がある。完璧だ。わたしはこれを求めていたんだ。乗りに来てよかった。
ささづかまとめ
「いい雰囲気ですね」
たかやまさん
「うん」
たかやまさんはうなずいて、目を細める。あごにかかる金色をした髪がゆるやかな風に吹かれて踊っている。
いちがやさん
「私たちだけで静かに乗られてよかったかも」
ささづかまとめ
「そーでしょー」
乗車時間はわずかだが、むしろその長さなのがいいのかもしれなかった。伊勢平野、杉の木立、虫や鳥。のんびりと乗客を運ぶケーブルカー。ぴかぴかの平成館と古びた外観の昭和館、そしてわたしたち。長さのバラバラな線分がたまたま今日ここに平行して存在しているのが、当たり前のようでやはり当たり前ではなくて、うれしい。
ケーブルカーを下車する。昭和館の3階。入口にある温泉の案内を3人で読む。「ラドンの泉」は同じく3階、「自助の湯」は4階、「木漏れ日の湯」は回廊を進んだ外にあるらしい。どれが何なんだ。
ささづかまとめ
「たしか、全部のお風呂に入れるプランがあるんですよ、2000円の」
いちがやさん
「2000円か、まあまあするね」
ささづかまとめ
「フロントのお姉さんは大浴場で受付って言ってましたよね。ネーミング的に4階が大浴場っぽいですけど、行ってみます?」
たかやまさん
「いや、まずはそこのラドンの泉で聞いてみよう」
ささづかまとめ
「えっでも…」
たかやまさん
「あのフロントのお姉さん、たぶん私たちがお風呂に2000円出すと思ってない」
ラドンの泉のフロントに声をかけるとたかやまさんの言うとおりで、すべてのお風呂に入れるプランはこちらで申しこむことがわかった。料金を支払うと「ラドンの泉は初めてでいらっしゃいますか?」と質問される。うなずくと、受付のお兄さんによるラドン熱気浴についての解説が始まった。
「お客様には30分ほどですね、熱気浴のお部屋で過ごしていただきます。床の下を流れております温泉から気化したラドンを吸い込むことで、そちらのポスターに記載してあるような効果を感じたという方が実際にいらっしゃるわけですね。当館のラドンの泉は、世界的に見ましても稀な高濃度ということでして、高い効果が期待できると言われているわけですね」
このお兄さんの口ぶり、ラドンの泉のことをあまり信じていないのでは? と思ったが、あまり確信を持って言うのも問題があるのかな、と思い直す。たかやまさんは途中から解説そっちのけで、壁に貼られたポスターを眺めるのに集中してしまったので、わたしといちがやさんで話を聞く。わたしは人の話を長い時間聞いているとだんだんぼーっとしてくるのだが、いちがやさんは相槌を打ちつつ集中して聞いている。熱気浴の解説とこれからの行程を丹念に説明してもらった後は、別室で血圧を測って問診票を書く。
いちがやさんが血圧を測っているとなりで、たかやまさんが受付でもらったラドンの泉のパンフレットを眺めている。
たかやまさん
「アトピーとか腰痛とか目の痛みとかに効くんだって」
ささづかまとめ
「わたしたち、どれもないですね」
どれも縁のない効能である。わたしはかつて腰痛があったけれど、自室のイスを買い替えたらいつの間にか治っていた。
たかやまさん
「うん。私たちがほしい効能ってなんだろう? ドジしなくなるとか?」
たかやまさんがパンフレットを机に置いて、わたしを見ながらにやりと笑った。
ささづかまとめ
「胃が小さくなるなんてどうですかね?」
わたしは負けじと真顔で返す。
たかやまさん
「ふん? それなら、服装のセンスがマシになるとかは?」
ささづかまとめ
「へえ、自分で言うんですね? わたしもそれがいいと思いますけど」
わたしとたかやまさんは無言でじっと睨み合った。格闘技の試合前の記者会見みたいに。たかやまさんの深い青を湛えた瞳を至近距離で見つめるのはなんだか緊張して、反射的に目を逸らしたくなるのをがんばってこらえた。
いちがやさん
「ちょっと、人が血圧測ってるとなりでいきなりギスギスしないでよ。演技だってわかってても血圧上がるんだから」
いちがやさんが耐えきれずにつっこんできた。測定中にしゃべるのはもっとよくないと思うけれど。
たかやまさん
「茶番で低血圧阻止!」
ささづかまとめ
「目指せ3桁!」
わたしたちが盛り上がっていると血圧計の空気がふしゅーっと抜けて、いちがやさんの最高血圧は108と表示された。
いちがやさん
「ほら高い」
たかやまさん
「ほんとだ、ちょい高い」
ささづかまとめ
「やっぱりそれで高いんですね」
いちがやさん
「たばこ吸ってなかったら低血圧すぎてほんとだめなんだよ」
たかやまさん
「たばこは薬?」
いちがやさん
「そうだね」
ささづかまとめ
「そう…なるんですか?」
お酒とたばこが好きでまじめだがどこかズレていて低血圧。いちがやさんは愛すべき人である。
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