![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/105108583/rectangle_large_type_2_bacebdf9a9c8fd66b488ddb8f31e719b.png?width=1200)
Photo by
satomigoro
壺の中と外の大空
久しぶりにお気に入りのアシュタヴァクラ・ギータを読み返しています。
冒頭部分で彼は「解放を望むなら、情念を毒として放棄し……」と言います。
この部分を見て見ぬふりをしていましたが、ハートと感情が違うものであり、感情とそれが引き起こすドラマは相手にしないものと心がけるようになった今、ようやく腑に落ちました。
毒とは命から遠ざけるもの。生まれた瞬間から死に向かってゆく、あのざらつきのことなのでしょう。
そして命を与える甘露が続いて示されています。
すなわち。
寛容、無垢、慈悲、充足、真実。
これらはすべてハートの質。
感情からハートに移行しよう、と言っているのかしら……?
ちょうど、すべてに浸透している一なる空が
壺の内と外で同じであるように
永久不変のブラフマンは、すべてにおいて同じだ
今日はここで撃たれて立ち止まり、反芻。
OSHOが言います。
「壺を思い描いてごらん。壺の中にあるのは同じ大空だ、外にあるのと同じ大空だ。あなたは壺を割るかもしれないが、大空は割れない」
大空が意識で、壺が体。
もっというなら、その大空こそが「わたし」という一人称にふさわしい唯一のものなのでしょう。
おそらくこれは、先日言及した大いなる源と同じもの……。
この魂、この命、この意識。
それは個としてのわたしだけにフォーカスしているのではなく、この空間、あるいはもっとトータルな世界のことなのです。
山雀のひとつの息は大空だ日や月さへもそのうちをゆく
──烏有