小説『ABC法案』
────序────
「あら、光くん!おはよう、早いわねぇ」
(やべ、真田のおばちゃんだ)
「…ぅは、ざぁ〜す…」
我ながら腑抜けた声で朝の挨拶を返した。
玄関を開け、スニーカーのつまさきをトントンと揺らし顔を上げると、いつも同じ光景が視界に飛び込んでくる。まだ6月なのに、すでに汗ばむ陽気に目を細めハンカチで額を拭うと、その甲高い声に呼び止められたのだ。
暑さも眩しさもお構いなし、ゴミ捨て場前の
毎朝の恒例『井戸端会議』
そんな単語を知ったのもつい数年前なのだけど。
正直めんどうだなあという気持ちで眉を顰めながら、手招きするおばちゃんの元へ歩み寄った。
「早いわね、部活の朝練?」
「あ、はい。試合が近くて」
「そうなの。朝から爽やかで、ハンカチ王子かと思っちゃったわよぉ」
真田のおばちゃんがそう言うと、周りのおばちゃんたちが古いわよ真田さん、と甲高い声で騒ぎ立てた。
肩と首の境がほとんどないこの丸いおばちゃんは、いつも人の輪の中心にいる。某国民的アニメのたぬきのようなその外見に、みんな心を許してしまうのだろうか。
「呼び止めちゃってごめんねえ。ほら、うちの惑*まどい はもう朝練ないでしょ?なんとなく懐かしくなっちゃってねえ」
「惑先輩、元気ですか?」
高三の惑先輩は、サッカー部の元主将でこの春引退したばかりだ。今は受験へ気持ちを切り替えている頃だろう。
「それがねぇ、ちょっとしょぼくれちゃって」
「え、何かあったんですか」
朝練の時間を時計でチラリと確認しながらそう言うと、真田おばちゃんは一歩近寄り声を顰めてこう言った。
「ほら…例のABC法案のことでちょっと、華ちゃんとね…」
「真田さん、まだ光くんには難しい話なんじゃない?」
後ろから、背の高いおばちゃんに遮られる。
「あら、そうよね…。ごめんね光くん。朝練遅れちゃう。急がなきゃね」
そう促され、軽くお辞儀をした後、おばちゃんたちに背を向けて歩き出した。
なんの話だったんだろう?
惑先輩、華先輩とけんかでもしたのかな。
恋人のいない僕が聞いたって、2人をとりなす方法も分からないし、話が終わってよかったのかも。
モテモテの惑先輩なら、仲直りくらいあっという間にできるだろうしな。
息を切らして走る僕を、すれ違うひとがいつもよりちらちらと見ているような気もしたけど、きっと気のせいだろう。
ABC法案ってなんだっけな…
朝のニュースで聞いたことがあるような。
そんなことをぼんやりと考えながら、学校へと向かった。