私ってドライなのかも。本物の優しさとは。
私は今まで優しい方かと思っていた。
だけどそれは本当の優しさではないのかもしれないと思ったことについて、今日は書いてみようと思う。
第一に、私は、他人が「思う」ことに関しては、一切口を挟まない。しかし「意見」については議論することもある。
これはなぜかというと、
「思うこと」は、今までの人生で培った価値観や視点を基準に自然と湧き上がってくるものであって、いわば制御不能なものだと思うからだ。
一方、「意見」というのは、脳であれこれ考えて導き出した結論なので、別の考え方もできると思うのだ。だから、自分の意見の方が目的を達成しやすいと思えば言うし、相手の意見が目的に近ければ譲歩することもある。
以前職場の集まりで、落ち込んでしまったAちゃんに対して、Bくんは
「〇〇の人々(とある部署または職種)よりはマシだよ」と励ました。
たしかに励ますために何かを下げるのは、褒められるべきことではないが、それはBくんの優しさだと思った。当事者はそこにいないわけだし。
しかしCちゃんは大激怒してしまった。
「〇〇の人々もこんなやりがいがあって…だから見下すような発言は許せない!」と。
場の空気が凍った。
先ほど述べた通り、私は皆と思ったことが違っても、「みんなはそう思うんだなぁ。私はそう思わないけどなぁ。」と心の中にとどめる派だ。
だからこそ、ここまで「思ったこと」を表現する人がいるんだ!とある種感銘を受けてしまった。(嫌味ではない)
そこで自分はどの程度「思った」ことを表現する人間なのかということについて、考え始めた。
思い返すと似たようなことがあった。
友達がメンタル不調で休職し、
それでもまだ夢を追っている様子に対しても、
私は「いいね、楽しそうじゃん、できるよ」と言った。
対してもう1人の友人は、
「〇〇はこういう性格だから、そういう業界、職場は合ってない。またメンタル崩すよ。〇〇な職場の方が合ってると思う」と言っていた。
この友人の言っていることは、ごもっともだ。
私も本心はそれに近い。
しかし、私たちが何と言おうと、その子の「夢を追いたい」という気持ちは変わらないと思い、私は少しでも前向きになれるような言葉をかけた。
でも本音をちゃんとぶつける友達は、私よりも優しいかもしれないとも思った。
職場の集まりで激怒したCちゃんも、たしかにあの場の空気は壊してしまったが、仲間思いで人望も厚い。
思ったことを表現するのは、リスクにも繋がるが、信頼に繋がることもあるのかもしれない。
でも私はそういう性格ではないので、
その人が思ったことに対して、受け入れる、寄り添うやさしさを貫こうと思う。
たとえドライだと思われたとしても、私は私でいい。でも自分を大事にしつつ、「思ったこと」を伝えるバランスについて、少し意識しながら生きていきたいという気づきを得た2024年春。
(P.S. 私が思ったことを伝えていたのは、元カレだけである。)