小林秀雄と柄谷行人は似ているか『考えるヒント3』
小林秀雄と柄谷行人は真逆の思想家だ、という印象をもっていたわたくし。
エモーショナルなシステムに自閉する小林と、自閉したシステムの外部を志向する柄谷、というふうに。
しかし小林秀雄の『考えるヒント3』を再読していたら、その印象が少し変わった気がします。
柄谷行人には、いわば自閉したシステムの外部を志向する態度がありますよね。
意識のなかで完結する体系を好まず、つねに体系に他なるものを導入したがるような。
その他なるものを柄谷は、たとえば「他者」といったキーワードで呼びます。
柄谷は意識のなかですべてを完結させようとする(と彼が見なす)思想家を嫌い(ヘーゲル、ハイデガー、ユング、ライプニッツなど)、逆に他者性を備えた思想家を評価しますが(カント、マルクス、フロイト、スピノザ、ウィトゲンシュタインなど)、ここにはシステムの外部を志向する彼のアティチュードが反映されているといえるでしょう。
では柄谷の先生的な存在ともいえる小林秀雄はどっちに属するか?
僕は以前から、小林といえば自閉的なシステムを連想しがちでした。
日本の美とか、伝統とか、世間の常識とか、そういう完結した体系のなかで自足しているようなイメージ。
しかし今回『考えるヒント3』を読み返してみて、その印象が変わったんですよね。
たとえば本書の155ページ。歴史とヘーゲルについて書かれた箇所。
ここでは歴史という語に、システムの外部、いわば他者性を喚起させるニュアンスが込められていますね。
また269ページの、リルケに関する部分。
ここでは、美という観念のシステムから逃れ去る、物そのものが言われています。
芸術家が作る作品は意識のなかに回収することなどできず、そこには意識の他者がある、というニュアンスですね。
このように小林秀雄にも、自閉した意識や観念の外部を志向するアティチュードが見られることに気づきました。
小林はよく「常識」というキーワードを使いますが、この言葉にも、柄谷が言うところの他者、哲学の専門用語でいえば超越でしょうか、それと同じニュアンスが込められているように思います。
ひょっとすると柄谷は、この態度を小林その人から学び取ってそれをさらに徹底化させたのかもしれません。
小林秀雄の名エッセイ集「考えるヒント」シリーズ。これは本当に読みやすくておすすめ。
初期の小林秀雄はやたら回りくどい表現ばかり連発してついていけないものを感じますが、後期のこのシリーズならスイスイ読めます。
なかでも第3巻の醍醐味はその文体にあります。実は講演をもとに書き直されたのが第3巻なのです。だから文体に独特の柔らかさがあり、独特なですます調が発明されています。