見出し画像

【短歌一首】 人寄らぬ悲劇の皇子(みこ)の陵墓にて黙想すれば山風うめく

人寄らぬ
悲劇の皇子(みこ)の
陵墓にて
黙想すれば
山風うめく

鎌倉にある護良(もりなが、またはもりよし)親王のお墓を久しぶりに訪れた。 護良親王は鎌倉幕府を倒し建武の新政(1333年)を行った後醍醐天皇の息子で、討幕の立役者の一人。 

前回2024年2月に訪れたときには工事中で中に入ることができなかった。

2024年2月(工事中)

鎌倉が大好きな自分が、鎌倉の名所旧跡の中で最も怖いと思っているのがこの護良親王のお墓。

今まで何回も訪れているが、一度も人を見かけたことがない。観光シーズンでもここで人に会ったことはない。 

住宅街の裏山

護良親王の御墓は、歴代の天皇や皇后と同じように山全体が山陵と呼ばれる墳墓をなっている。閑静な住宅地を通り抜けていくと、突然、お墓(宮内庁管理)となっている山が現れる。

住宅街の裏手であるにも関わらず、この辺りで近隣の住民を見かけたこともほとんどない。

山陵の入り口

この山陵の近くにはいろいろな有名な神社もあり、道の交差点などには名所旧跡の方向を示す道標などが至る所に立っているのだが、この護良親王のお墓の場所を示す道標は(自分がこれまで確認した範囲では)見当たらない。 最初に訪れた時も、たまたま散策中に発見した。

入口の石柱

山陵の近くに来てもこの場所が護良親王のお墓の山陵を示すものはほとんど見当たらず、唯一、入り口から数メートルのところに、「後醍醐天皇皇子 護良親王墓」との小さな石柱が立っているだけ。 この表示も注意してみないと誰もこの場所が護良親王のお墓であるとは気づきにくい。

護良親王の陵墓

山陵には山を登るための長い階段がどこまでも続く。 以前は階段全体が苔むしており、一部破損しているところもあり足を滑らせる危険性もあった。今回工事により新しいコンクリート作りとなった。(個人的には、前の階段の方が趣きがあり、さらには鎌倉最恐スポット?らしくて好きだった。)

最初の46段

外から来た人が登ることを許されている階段は大きく3つの区分に分かれているのだが、今回登りながら段数を数えてみたら、46段ー84段ー36段 =166段であった。石段の一つ一つが小さく勾配角度が急なので、166段を一気に登るのはけっこう体力を消耗する。

二つ目の84段
二つ目の84段

二つ目の84段の階段は、工事前は特に苔むし、破損箇所も多かった。この階段を下るときに転びそうになったこともあった。最も体力を消耗する場所。

三つ目の36段

階段を登り終えると施錠された柵で立入禁止区域となっている階段が現れる。いつもここを訪れると、必ずこの場所でしばらくの間目を瞑って手を合わせる。

立ち入り禁止の階段

護良親王は若くして天台座主(天台宗のトップ)を務め、鎌倉幕府を倒すために還俗し征夷大将軍にも任ぜられ、討幕では八面六臂の大活躍をした学問にも武芸にも秀でたエリート中のエリートだった。 

しかし、あまりにも突出した力量が災いしたのか、同じ討幕メンバーである足利尊氏との対立や父の後醍醐天皇との確執などいろいろな事情から、土を掘って作った牢(土牢)に幽閉され、その後27歳の若さで斬首された。

その後護良親王の御首がどこにいったのかについては諸説あるようだ。(ちなにみ護良親王の墓についても、学説と宮内庁では見解を異にする点もあり。)

立入禁止区域の階段

この山陵の頂付近で目を瞑って手を合わせ護良親王の無念に思いを寄せてみる。
ビビりながらいつも誰もいない山の中で、一人で10分近くこの場所に佇んでいる。

山を吹き抜けていく風と、風に揺さぶられてなる山陵の木々の葉擦れだけが唸りを上げている。

山陵の頂付近から

鎌倉幕府を倒した中心人物として、その後の武家政権においても鎌倉においても護良親王の扱いがとても小さいことを憂いて、明治維新後に明治天皇の命により鎌倉に鎌倉宮という神社が建立され、武家政権から天皇に政権を取り戻した大先輩として祀られた。

さて、歩いて鎌倉宮まで行ってみるか。鎌倉宮の中には当時の土牢と言われる横穴式の土牢もある。

それにしても今回もひとっ子一人いなかった。うめくような山風が鳴っている森の中を、一人であの長い階段を下っていくのは毎度のことながらとても怖い。

猫間英介


鎌倉に関連する短歌を集めました。




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集