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ギフテッド概念の混乱

豊かな才能に恵まれた人を「ギフテッド」と呼んだりする。

そんなギフテッドについての本を拾い読みした。

阿部朋美・伊藤和行『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版、2023)である。

ギフテッドと呼ばれる人たちへのインタビューなどで構成されている。

専門家の見解として、上越教育大学の角谷詩織教授へのインタビューも載っていた。

しかし同教授の見解は、やや釈然としない。


まず、IQを説明の軸に据え過ぎなのが気になる。

「IQ120前後の子どもが何らかの特定の教科で目をみはるほどの才能を発揮しているということはほとんどないでしょう。[…]」(p.109)

「ギフテッドの中で最も多数派のIQ130前後の子どもたちへの教育をそんなにがちがちに構えないでほしいなと思います」(p.110)

以上のように、「IQがいくつだと、こういう子だ」とか「IQがいくつだから、こう接すればいい」とか単純に言いきれるものなのだろうか。

ちなみに著者の伊藤は「おわりに」で、「才能という計り知れないものを一定の基準で判定してしまうことへの悪影響を懸念する意見」(p.204)について言及している。


また、ギフテッドと発達障害の両概念を峻別する教授の姿勢が気になった。(p.112-p.113)

仮にギフテッドか否かをIQで測るとすれば、高IQの発達障害者は存在するので、ギフテッドと発達障害は併存しうるのではないか。

両概念を常に峻別してしまうと、次のような問題が生じる。

生きづらさを抱える人が発達障害と診断されたとしよう。そしてその後、その人が実は高IQだったと判明した場合、「生きづらさの原因は発達障害ではなく知能の高さにあった」という話になる。こうして発達障害ゆえに生きづらいという可能性が見落とされる恐れがあるのだ。

もちろん発達障害だけではなく、その他の要因も探るべきだろう。

実際、本書に登場するギフテッドの方々に関して、果たして知能の高さが生きづらさの主な要因だったのか疑問に感じるケースがあった。


ところで、本書は「ギフテッド」と「生きづらさ」がテーマだが、ギフテッドの人全員が生きづらさを感じているとは限らない。

しかしながら、社会環境の不備もあって「ギフテッド=生きづらい」というイメージは確かにある。

むしろ、ギフテッドの定義に「生きづらさ」を組み込んだほうが、社会的包摂への気運が高まるかもしれない。

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