「憂国」と「セヴンティーン」
三島由紀夫の「憂国」と大江健三郎の「セヴンティーン」。どちらも右翼を描いた1961年の作品だ。
三島のはタイトルは格好良いが、立場のある軍人が二・二六事件に直面して自決することに私は無責任さを感じてしまう。"皇軍"にも"反乱軍"にも加担せず死を選ぶのが武士の道なのだろうか?
一方、大江のは左翼のシンパだった少年が右翼団体へ加入するストーリーだ。終盤には、かなり陶酔的な愛国心が主人公によって語られる。ある種のカタルシスが感じられるが、ナチスのヒムラーによる訓戒まで持ち出されており読者を戸惑わせる。
二作品とも、右翼的情熱と性行動とを結びつけた描写が特徴だ。精神分析におけるエロスとタナトスとの連関を思わせる。
それにしても、楯の会で知られる三島の"右翼小説"が悲劇的なのに対し、九条の会で知られる大江のそれが前向きな語り口で終わっていくのが逆転現象を呈していて興味深い。
大江作品の場合、「セヴンティーン」に限らず、敢えてタブーを描き切ろうとする姿勢が見受けられる。それゆえ、時として不謹慎とも思える内容を含む。それは彼の精神世界の産物ではあるが、主義主張としては、そうしたものを選んではいないようだ。