今年の目標は単純明快『知的生産の技術』
やあ、僕だよ。
一つのエンタメが途切れるとついメルカリでiPad Proを探してしまうんだよね。(なんと毎日2時間近く消費している!)
それというのも、ついに痛みとだるさで「座る」ことが難しくなってきて、パソコンを立ち上げるのすらままならないんだ。
昨今パソコン所有率がずいぶん低いそうだけれど、僕の生活の大部分がそれに頼った生活なので精神的にも堪える。
確かにクッション案もいくつか出た。
でも試す気力もないし、何より以前失敗しているおかげで不信感しかない。
よってiPad Proを駆使し、最悪座らなくてもそれなりの作業が出来る環境を作りたくなったの。
動画編集とキーボード利用と原神がベッドで出来るなんて夢みたいだと思わないかい?
今日はそんな作業場作りのヒントになりそうな本を読んだんだ。
僕がやってることなんて「知的生産」って言えるほど大げさな作業でもないのだけれど、たまに行き詰まるから改善の余地はあるんだろうね。
これを極めたらどんな記事でも書けそうな気がするし、僕の知りたい(込み入ったやつだ)を満たせるかもしれない。
さあ、始めようか。
今日も楽しんでくれると嬉しいな。
本作あらすじと感想
全11章に及んで、メモや原稿を「書く」、書類や本を「読む」、情報や未処理のものを「整理する」方法を説いた一冊。
1969年初版の本なのでパソコンはおろか、ワープロすら出てこない。
そのため、著者は「ひらかなタイプライター」で原稿や手紙を作成したり、オーダーメイドで発注した「カード」を駆使して色んな情報を「整理する」。
また、特筆したいのは将来的に「庶民」の我々も頻繁に「書く」ようになると繰り返し言及しているところだ。
実際、SNSは梅棹先生の言うところの「カード」にコミュニケーション要素を足したものだし、このnoteだって「原稿」のようなものだ。
僕は学者でもなんでもないけれど、毎日何かを考え、書きとめ、無意識に思考の深度を進めようとしている。
それは情報の「蓄積」からなる知的生産とも言え、「現代人のほとんどがやってる」と断言するのはいささか大仰までも、1960、70年代に比べれば「ほとんどがやってる」率は急増してるに違いない。
そうそう、タグ付けに似た考え方も出てくる。すごい、まるで予言者だ。
僕は新しいことを思いつくと世紀の大発見並にいつもはしゃいでしまうから、感動はそのままにクールに発表していきたい。
何より、この本とてつもなく読みやすい。
『贅沢貧乏』を読むのに実は1ヶ月ほどかかっていて、それはほっこり気分をなるべく長く味わいたかったのもあるけれど、読みづらかったのも大いにあった。
ショーペンハウアーさんの翻訳本もすごく読みやすくて、でも込み入ったことがきちんと分かる本だった。
僕はこういう文章を目指したい。先生も元々、文章を「書く」のが苦手って書いてあったしね。
そうだな、今年の目標は何事においても「単純明快」でいきましょうか。
痛いし辛いしだるいけどやらねばならないは僕を追い立てる
この「やらねばならない」は思い込みの「やらねばならない」ではなく、精査した上での「やらねばならない」である。
例えば風呂に入るとか残り物を食べるとかペットの飼育ケージを掃除するとか洗い物をするとかが該当する。
ここ数日、これらの、僕らしく生きるために必要な最低限の「やらねばならない」すら、一つこなすのに時間がかかり、苛立ちと情けなさと諸々の感情がぐらぐらと煮えたぎっていた。
先月、僕にしては人に会いすぎたのが原因だろうか、それとも年末から急に大きくなった腹と体重のせいだろうか(1週間で4キロ増は虚弱な僕には堪える)。
とにかく息がしづらい。
水を飲んでいると楽になるのだけれど、実は逆流性食道炎?で薬を貰っている。
特に食中に水を飲みすぎないよう、やんわりと言われているから始末が悪い。
加えて腰と尻とみぞおちが痛い。
20分も座っていると痛みとだるさで居ても立っても居られなくなる。
この状態になるまで、集中力が完全に途切れるのは60分から90分(僕の場合は)だから、その度に立ち上がってラジオ体操したり、買い出しに行ったり、コーヒーを淹れたりしていた。
が、20分ごとに立ち上がって座るを繰り返すなど、想像するだけで辟易する。
実は夫のパソコンはモニター兼テレビに繋がっているから、ほぼ寝ながら操作することも出来る(実際、この小説めいた記録は夫のパソコンから投稿した)。
しかしながら、彼が勤務時間外は常に動画かアニメかゲームで埋まっているので僕の事情で唯一無二の趣味を取り上げるわけにはいかない。
京都の食堂を50年やってるおばちゃんの凄み
京都の有名な食堂を御年80歳になるおばちゃんがやってる動画を夫が流していた。
彼女に話しかける多くの常連客が「通って~年」を必ず言うところ、しかも揃って長年通っている。僕はそれを見て、チベットスナギツネみたいな顔になってしまった。
僕、ああいう地元の人が長く通う店がちょっと苦手なのだ。
彼女は子どもが生まれたばかりの頃に自分の夫が体を壊し、その後25年間入退院を繰り返す生活だったらしい。それで子どもを見つつ、夫の看病をしながら、家計を支えるのに仕方なく自宅一階で飲食店を開店したという。
そんな彼女が「結婚生活でいいことなんて一つもなかった」と言い切っていた。
「色々言ってるけど、どうせイイ話にするんだろ」とやや斜に構えていたので不意を突かれた。
現実に即した美しい、シンプルな感想だと思った。
僕みたいな、一つの物事をごちゃごちゃこねくり回す人間には出てこない感想だ。
「つらいものはつらい」と受け止められないからこねくり回すのであって、妹や夫に通じる単純さが眩しい。こういう人間になってみたい。
つらいものはつらいし、可愛いものは可愛い
とシンプルに受け止められないのは僕の心が耐えられないのもそうなんだけれど、とここまで書いてから、今年の目標を思い出した。
今年の目標は何事においても「単純明快」である。
こんな感じで僕もシンプルな時はあるので、達成できない目標でもないと思う(シンプルではなくIQが下がってるだけとも言える)。
「単純明快」になるのは一朝一夕で叶えられないため、まずは「複雑多岐」をやめるのに徹する。
最終目的は研ぎ澄まされた「単純明快」を拾い集めて「整理」し、思考の深度を進める。さすれば、僕の知りたいもいつか分かるかもしれない。
見せかけの複雑さを捨て、整然と建設されたものを作っていきたいのである。
(ああ、またごちゃごちゃと!)
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