思いどおりにならないのに小言言っちゃうよね『セッション』
やあ、僕だよ。
一週間前、祝日なことをすっかり忘れて、ゆうちょ窓口に行くという大失態をやらかした。
ずっと息苦しい思いをしているのに、日に日にそれをわずかに超え続けているから、この時の僕は自分自身に対しての怒りが荒れ狂う波のごとしだった(徒歩10分くらいの近所である)。
予定日が差し迫っているとはいえ、あと残り一ヶ月。
夫から「もう動くな」と再三言われるが、動かなかったら動かなかったで調子が出ないし、動いたら動いたで頭のもやが思考を邪魔してうまく体とつながらない。
妊婦とはかくもままならぬものか。
穏やかが売り(?)の僕の最近の独り言は「いらつくなぁ」である。
さて、そんなとげとげしい僕が選んだのはずっと観たがっていた夫が「怖くて観れない」と言わしめた一本だよ。
それと、「人は思いどおりにならない」ことも書いていこうと思ってるからね。
さあ、始めようか。
今日も楽しんでくれると嬉しいな。
本作あらすじと感想
冒頭、暗い部屋のスポットライトの下でドラムの練習している主人公「ニーマン」のカットから始まる。
今思えば、この画面はすでにそこそこ不穏だ。でも夫に「鬱映画」と聞かされていた僕は、例の「フレッチャー」先生に椅子を投げられたシーンに遭遇したというのに、序盤30分を観終わり、LINEで本作を「洗練されたのだめカンタービレ」と評して彼に送った。
「フレッチャー」先生の廊下での励ましや、気になるあの子との青春を観せられて、肩透かしを食らったかのような気持ちがしたのだ。
「天才だらけの業界で生きていくには大変な思いもするよね」なんて、まるで「大変な思い」を美化するように。
そうか、トロンボーンの彼がバンドメンバーから外されたのは「フレッチャー」が嫌いだったからなんだと気づいた時にはもう遅かった。
筆舌に尽くしがたい状絶。
みるみるうちに「ニーマン」は追い詰められ、しまいには楽譜の事件(物語の核心に迫る内容のため、ここでは伏せる)まで起こす。
「フレッチャー」の理想を目指していた頃はまだ良かった。それが運命づけられた(と認識した)瞬間、「ニーマン」は「普段」の思考や暮らしを捨てることになるのだ。
この映画についてのレビューをいつも通りあさっていたら、ドSの先生と ドMの学生っていう批評があったんだけれど、絶対主人公はドMなんかじゃないと思うんだよね。
むしろ、攻撃性は終始「フレッチャー」に向けられていて、立場上「ニーマン」の方が弱いから結果痛めつけられているだけな気がする。精神的S同士のマウントの取り合いというか。
とはいえ、「フレッチャー」に一方的に痛めつけられた代償は大きく、いわゆるブラック職場でパワハラを受ける社畜のそれにいたるのだ。
それでも「ニーマン」は絶対に自分のパートをゆずらないって、そのために命すら削って(実際死にそうな目にあう)「フレッチャー」に一矢報いる。
それでも最後に割を食うのは「ニーマン」で、「フレッチャー」は「ニーマン」に比べて失ったものが少なすぎると感じるのは僕が社畜側の人間だからだと思う。
あのくそ「フレッチャー」は傷つけることに喜びを感じていたか。感じていた。でも決して認めようとしなかった。
何故だろう、真面目だから? ある意味ではそうだ。
倫理感が強く、正しいものに固執し、自分自身すら正しさから外れることを拒んだんじゃないだろうか。
セックスするのに言い訳が必要な人がいる(大抵物語で描かれるのは女性だ)らしいけれど、根本は一緒だ。
言い訳のために天才を探していたのではないか、傷つけてもつぶれない天才を(無意識のうちに)。
結論として、この映画が鬱映画かどうかは人による。そして、さすがアカデミー賞に絡んでる作品だけあってエンタメ性も一流である。とてもよい映画だった。
が、これは音楽の天才が成り上がる映画でも、甘じょっぱい青春を楽しむ映画でもないことは確かで、きっと僕は二度と観ないだろう。
(『ファニーゲームUSA』ほどの理不尽感はないよ!)
思いどおりにならないのについ小言言いがち
人は基本的に思いどおりにならない。
典型的な、「勉強しなさい」と小言を言うお母さんだって、重々分かっているはずだ。
もし分かっていなかったとしたら、それを考えずに生きてこられたある意味で幸運な人間である。
最近、夫が禁煙したのは何故なんだろうと考える。
前からしたいとは言ってたのは事実で、僕(幾度も禁煙を断念している元喫煙者)もすすめていた。
でも思うだけ、言われるだけで、「やる」とは性質が違う。
特に周りに言われると「やる」のエネルギーが吸い取られる気持ちまでする。
脳のリソースが言われた事実を処理するのにとられて、積もり積もって「やりたくない」になってしまうせいだと思っている。
「何かをやらせる」、「何かにさせる」には「何かについて思わせる」までが限度で、それ以上はその人自身の体力、タイミング(例えば日頃から運動したいと思っていて、たまたま休みの日に早く起きられて晴れていたからプレゼントされたシューズでランニングを始めたとか)が重要なんだろうなというのは僕が生活から得た所感である。
では、何故言ってしまうのか
言われる側の仕組みは多かれ少なかれ、誰しも同じだろう。
それに対して言う側の仕組みや動機は、少々込み入っている。というのも、相変わらず子育てに不安を抱え、そういうことばかり繰り返し考えているためにいろんなパターンが僕の中で積みあがってきた。
一番最初に出てきたのは前述した「勉強しなさい」だ。
これは非常に悩ましい小言である。この小言には言われる側の将来を案じる気持ちがほとんどなのに、ほんのわずかな劣等感(自分が取り戻せない時間の消費を後悔したり、言われる側が劣等生だと恥ずかしい気持ち)が見えた瞬間、言われる側との関係が崩れかねない危険性もある。
大抵の場合、言う側は愛情が期待されている存在だからで、言われる側が劣等感に失望するのも期待しているからに他ならない。であれば、ある視点から見れば幸せと言えなくもない(曖昧な言い方なのは僕が想像できないからだ)。
「勉強しなさい」と言ってしまうのは、言われる側の可能性に期待し、それをないがしろにするかもしれない、そしてその行動はどんな人間にもあり得るという、言う側の知見が小言につながる。
そう、言う側は言われる側を軽んじているわけではなく、人間という生き物に信頼をおいていないのだ。
「あまり遅くならないで」も同種の小言と言えよう。日々の「やらねばならない」に影響が出るほど、無為な時間を過ごしてしまうのは人の常で、言う側はそれを大いに後悔している(現在進行形で)。
最初からタイムマネジメントが上手くやれているように見える人間もいるだろう、でもそういう人間は大きな失敗を犯した経験があるか、誰かからやり方を盗んでいる。それに、他人は思ったより自分の人生に四苦八苦している。
そういえば、実際の生活上でもフィクションの中でも、小言を言われる側は万能感を持っている年代であることが多い。
おじさんおばさんは、言われなくてもやれることを期待されているか、逆にまったく期待されていないかどちらかなんだろうな。
まさに「言われるうちが華」。おじさんおばさんは華でなく枯れ木ってか、うるさいわい!
「勉強しなさい」と生涯一度も言われたことがない僕
その代わり、「家の手伝いをしろ」や「片づけをしろ」はよく言われた。
何故しなければならないかを上手く理解出来ない子どもだったので、やらなかった。母は夫に同情しているし、僕も妊娠するまで家事がこんなに大変だとは思っていなかったので、反省はしている。ほんとに。
でも、言われる側から一つ忠告したいのは、「命令して楽をするな、理由を述べよ、説得をせよ」ということである。
もちろん、すべてにおいてとは言わない。でも、何度か説明する機会はあったと思うし、タイミング的に伝わらなかった(特に僕は自分の体力を見誤って人生が立ちゆかないほど疲れ切っている時期が多かった)こともあるだろうけれど、命令する回数を減らして当たり前のことをかみ砕いてほしかった。
自分が親になるにあたって、今まで生きていくのに精いっぱいだった僕もやるので。やりたいので。
せめて孫にはそのように接してほしい。人間は怠惰で忘れっぽく、自分では可能性に気づけない生き物だから。
ちなみに「勉強しなさい」を言われなかった僕は学ぶのが好きであるが、学校システムには馴染めなかった。
妹は学校は好きだったが、勉強は徹頭徹尾大嫌いらしい。(と言いながら国家試験受かってるのがすごい!)
ほんと、人って思いどおりにならないものである。
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