人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だにゃあ『読書について』
やあ、僕だよ。飽き性ちゃんだよ。
「哲学」って言葉を聞くと少し尻込みしてしまう僕なのだけれど、ついに読んでしまったんだよ、哲学者の著作物を。
なんか人生のランクが上がった気がして誇らしい気持ちと、このまま哲学にハマったら僕ついに命を絶つんじゃないかという恐ろしい気持ちがない交ぜさ。
この辺りの僕の偏見についても、いつもみたいに書いていくね。
さあ、今日も僕に付き合っておくれよ。それで、楽しく読んでくれたら嬉しいな。
本書あらすじと感想
『読書について』ショーペンハウアー
kindleunlimitedで読了。とても読みやすいので途中までエッセイか何かだと思っていた。僕はショーペンハウアーさんをどこかで聞いたことがある程度で、ただの古典作家だと思っていた。
ショーペンハウアーさんごめんね。
どうやらこれは『意志と表象としての世界』という哲学書の「付録と補遺」から抜き出して刷られたものらしい。
この本は比較的売れたみたいだが、それも納得できる分かりやすさ。
僕の中の哲学者は難しい哲学用語をつかって当たり前のことをこねくり回しているか、「自分とは何者で、何のために生まれてきたのか」と自問自答し続けて自殺するイメージしかなかった。
本書は「自分の頭で考える」、「著述と文体について」、「読書について」の三編の構成である。
平易に書くことに執着すら感じる。一部例外があるなら、「著述と文体について」で当時の著作物について単語を挙げて批判している箇所。
ドイツ語話者でない僕には難しかった。そこだけ文法の教科書だった。
ショーペンハウアーさんについて解説している記事。分かりやすくてショーペンハウアーさんへの愛を感じる。
どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。
「自分の頭で考える」の冒頭部分がショーペンハウアーさんの最も言いたいことなのだと僕は思う。
この文にドキッとした読書家や文章を書く人たちはこの本を読むといい。
耳や頭や心が痛くなるけれど、全部読み終わったあとにもう一度この文を読むと勇気が湧いてくる気がするから。
哲学と宗教には近づくな
僕は二十代前半頃、タイに行ったことがある。バンコクには寺院がたくさんあって、どんなに小さな寺院でも新しい蝋燭が灯されて花が手向けられていた。
それに、大抵お祈りをしている人が三、四人はいて、信仰が身近であることにカルチャーショックを受けた。
それまでの僕はというと、仏壇に手を合わせることも墓参りも少々面倒な雑事だと捉えていた。
周りの人間もその節があったし、通っていた大学では宗教勧誘禁止のポスターがこれでもかと貼られ、「宗教は悪だ!」と強い感情がなくとも「なんとなく近づかない方がいいのかな」くらいの心持ちではあった。
宗教勧誘の文句を鵜呑みにするならば、ブッダもキリストも突き詰めていけば人生哲学を言っているということだったので自然と哲学からも遠ざかっていた。
タイ帰国後、大学の一般教養で単位を取りやすいという「インド哲学」の授業を受けた時、「ちょっと面白いかも」と思った。が、単位は落とした。
哲学アレルギーからの脱却
社会人になってからも、会社であの会社はとある宗教を信仰しているから云々と対応方法について指導を受けることもあった(表面上の言い方は決して偏っていなかったが、言外に非難めいた「ああいうの困っちゃうよね」みたいな空気を感じた)。
自己啓発本を読み漁っていると哲学の本に行きつくこともあった。
自己啓発本の著者のメルマガに登録したら、有料セミナーの勧誘広告ばかりでうんざりしていた僕だったのでそれ以降自己啓発系の書物を避けるようになった。
行きついた哲学書は読まなかったか、読んでもよく分からなくて忘れた。
僕の人生は上手くいかないことばかりで、他の人より希死念慮強めだと僕自身思っている(社会に出てから、自殺に縁がない人がこんなにいるのだと驚いたのだ)。
(僕の人生がいかに上手くいっていないかはこの辺りを読むと何となく掴めると思う。)
その度に僕は一度立ち止まり(立ち止まらざるを得ず)、時間をかけて消化してきた。
本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。
とショーペンハウアーさんは言っているけれど、僕だってこの思考の始まりやきっかけを「他人の頭」に任せられるなら任せたかった。
この出来の悪い頭じゃ、現状に辿り着くまでこんなに時間がかかってしまったのだから。
父祖の遺したものを完全に自分のものにするためには自ら獲得なさい
ショーペンハウアーさんがゲーテの一節を教えてくれた。
僕の遠回りの実感は尊く、よいものだとはっきり言ってくれている。勇気が出る。彼はゲーテと仲が良かったらしいから、ずいぶん意気投合したのだろうなとほっこりした。
あったら嬉しいな的ポジション
自己啓発もそうだけれど、僕にとっての哲学もそうなのだ。
昨日、美術アレルギーの人たちに向けて「美術館なんて大したことない」なんて布教しておきながら、僕自身哲学や宗教について大変な偏見を持っていた。僕はまたしても愚かである。
自分の思考は自分のものというのは大前提で、先人の遺した考え方を消化することでそれはそれとして自分の思考が進むかも、的な話だった。
実感としてあるいは偏見として「のめり込むとヤバイ」というのも間違ってない。
先人の遺した哲学が自分の思考のすべてにはなり得ないからだ。
だからこう、ショーペンハウアーさんも言っている。
「他人の頭で考えたことばかり取り入れてると自分の頭で考えなくなる」ってショーペンハウアーさんも言っている。