天衣無縫の極みと矜持の光の共通点は「自分軸」
今回はいつか書こうと思っていた天衣無縫の極みと矜持の光について。
準決勝のドイツ戦のS3、Q・Pvs鬼で天衣無縫の極みがドイツによると「矜持の光(シュトルツシュトラール)」という呼称で定義され、更に3つの精神派生があることが判明しました。
その精神派生とは「愛しさの輝き」「切なさの輝き」「心強さの輝き」の3種類があって、まあわかる人にはわかる通りあんまり考察してもしょうがない類のものではあります。
色々考えられますが、まずは「天衣無縫」「矜持」という語源について一般的な言葉の定義から入ってみましょう。
天衣無縫:人柄が天真爛漫である様。転じて詩や文章に技巧などの余計な跡が見えず、自然かつ美しく完成されていること。
矜持:自分の能力や行動に自信・誇り・プライドがある様。また、自我を抑制し慎むこと。
こう見ていくと天衣無縫と矜持では全然意味合いが違いますが、これは単なる日本とドイツの歴史や思想に基づく意味の違いというだけなのでしょうか?
同じ形態なのですから国は違えど、どこかに共通する意味がなければ同じ形態を違う言い方で表現するわけがないと思います。
天衣無縫の極みと矜持の光、その共通項は「自分軸」ではないかと思います、正に風の時代と呼ばれる今に相応しい本質ですね。
出発点や発想のアプローチが異なるだけで、例えるなら「ドラゴンボール」の地球人が開発したかめはめ波とサイヤ人が開発したギャリック砲の違いのようなものです。
まず天衣無縫の極みを見ていくと、最初に全国大会決勝S1で越前が見せた天衣無縫の極みは正に一般的な定義の通り技巧やわざとらしさが全くありません。
全てのショットの回転・威力・軌道、そして何よりプレイヤーたる越前リョーマの超然とした圧倒的な輝きは自然で美しいながらに完成されていました。
少なくとも初登場時は幸村を完全に圧倒する強さを持ち、審判が遂にモニターで確認しなければならないほどのサーブにショットを繰り出していたのですから。
越前南次郎がプロになってやっと辿り着いたであろう姿に12才の若さで辿り着いてしまうのが凄いのですが、天衣無縫の極みは言うなれば禅宗の悟りの境地です。
元々は「無我の境地」から派生した3つの扉の1つにして、千歳曰く最後の開かずの扉と言われていたものなので越前家以外の天衣無縫の使い手は他にいなかったのでしょう。
高校生でもこれを使えているのは鬼十次郎のみであることから如何に狭き門かがわかりますが、それくらいサンプル数が少ない伝説の存在だったと思われます。
テニプリ世界において「無我の境地」が果たしてどの程度研究されているかはわかりませんが、南次郎以前で天衣無縫の極みを含む無我の使い手は日本にいなかったかのかも。
だからこそ迷信のようにして誰も見向きもしなかったのですが、越前リョーマが父親に続いて2人目であったことを考えると最初は一子相伝のように描かれています。
しかし南次郎はそこで伝説のテニスプレイヤーの息子だからリョーマが天衣無縫の極みになれたわけではないと説明し、きちんと「テニスを楽しむ心」が大事と定義しました。
新テニでは実際に手塚国光・遠山金太郎も天衣無縫の極みに到達しており、決して越前親子だけの特権ではないことが証明されており、南次郎の言い分が信憑性を増しています。
それでも能力が飛躍的にアップすること以外は「何やら凄いらしい超越的な力」としか示されておらず、そこから先へはなかなか辿り着けなかったのです。
それを西欧哲学の観点から言語化・再定義したのが「矜持の光」だったわけであり、漠然とした抽象的な観念論だった天衣無縫の極みをより具体化したものだといえます。
その「矜持の光」ですが、これの大元になっているのはニーチェ以降のドイツ現代哲学であり、自分を支えるものの根拠を自分以外に求めてはならないという考えが根底にあるのでしょう。
「愛しさ」「切なさ」「心強さ」といずれもが精神派生ですが、その真ん中に「自我」があり、テニスは全て自我に従うべきものだと定義したのです。
これがおそらく天衣無縫の極みとの大きな差であり、天衣無縫の極みとはドイツ哲学の言葉を借りるなら経験則を元に法則性を導き出す「帰納法」によって確立されたものでした。
数々の強敵とぶつかり合って自分の限界を超え、楽しさとは逆の辛さ・苦しさ・悲しさ・厳しさを味わっても尚テニスを心から楽しいと思えることが必要条件でした。
一方で矜持の光はその逆であり、まずは抽象的な矜持があって、その精神性が突き詰められた時に発するという「演繹法」によって導き出されています。
だからこそドイツでは日本で無我の奥にある開かずの扉が3つあるように、天衣無縫の極みにも実は3つの精神派生があると説明したのでしょう。
つまり辛さを味わった上でテニスを楽しむのではなく、テニスの原点を突き詰めるところからかえって愛しさ・切なさ・心強さへと具体化されていくのです。
正に天衣無縫の極みとは逆のプロセスと思考法を辿ることによってテニスとプレイヤーの精神とを再定義したのが矜持の光でした。
つまり天衣無縫の極みはプレイヤーがテニスに従う形で開眼しましたが、ドイツでは逆にテニスがプレイヤーに従う形で変容していきます。
そしてそれは旧作終盤〜新作序盤までは1つの完成系だと思われていた天衣無縫の極みには実はまだその先があってレベルアップ可能だということを示したのです。
これは「ドラゴンボール」で言うなら悟空・ベジータ・未来トランクスが決死の思いで辿り着いた超サイヤ人が実はゴールではなくレベルアップ可能だというようなものでしょう。
それを証明するかのようにQ・Pは鬼十次郎との戦いで「天衣無縫の極み・その先へ」を示して超サイヤ人3ならぬ天衣無縫の極み3くらいの段階にまでアップしました。
そしてその後の幸村VS手塚では「零感のテニス」という「天衣無縫の極み」を完全に打ち消す抑止力が出たことによって天衣無縫の極みの「技」としての側面が標準化されました。
無敵に思えた天衣無縫の極みとて掘り下げて分析していけば弱点や対策の1つや2つ見つかって当たり前であり、幸村は天衣無縫の極み(矜持の光)のみが正解じゃないと証明したのです。
こうすることで天衣無縫最強説は超サイヤ人がそうであったように決して無敵の存在ではなくなり、使い手が増えたことによってバーゲンセール状態となりました。
しかし、それでも天衣無縫の極み(矜持の光)の価値が薄れない理由はテニスを楽しむという心の問題と「勝ち負け」とがあくまでも別軸として存在しているからです。
天衣無縫の極みと矜持の光はどちらも「自分のためにテニスをする=自分軸」がキーワードですが、単純に誇りや自尊心があるというだけなら跡部や王者立海のメンバーも覚醒してよさそうです。
しかし何故跡部や王者立海の幸村・真田・赤也辺りが無我の境地へ辿り着きながらもその奥にある3つの扉を開けないかというと、彼らは「他人軸」でテニスをしているからでしょう。
跡部様は何度も考察しているように自尊心の高さの根拠は跡部財閥より叩き込まれた帝王学=ノブレスオブリージュであり、本当の意味での自分軸であるとはいえません。
これは王者立海の3人の天才も同じことであり、幸村・真田・赤也のいずれも合宿に入ってから自分のテニスと向き合うようにはなったものの、それでも自分軸でテニスをしているかは疑問です。
幸村は「テニスを楽しもうと思ったけれど」と言っていますが、これ自体がそもそもズレていて、「テニスを楽しむ」のはあくまで「結果」であって「目的」ではありません。
真面目で不器用な性格ですから仕方ないといえば仕方ないのですが、真田にしても赤也にしても「どうすれば天衣無縫に到達できるのか?」ということに意識が向いています。
つまりまだまだ彼らは自我がテニスに従っている状態であり、また日本代表とかその辺を背負ってテニスをしているのではないでしょうか。
そのような心理構造では自分軸に到達することはできないし天衣無縫の極み(矜持の光)へと到達することは夢のまた夢なのです。
ここまで分析してようやく天衣無縫の極みの本質が「自分軸」にあるといえるわけですが、Q・Pが天衣無縫の極みのその先まで行き着いてしまった今越前や遠山はどの方向へ進むのでしょうか?
天衣無縫とは別のルートを開拓するか、それとも天衣無縫の極みを更に極めて独自の進化形態を生み出すのか、決勝のスペイン戦ではその辺りの答えも描かれそうです。
ああ、だからこそ決勝には幸村・真田・赤也・鬼ではなく越前と遠山という「進化の可能性」の余地を残した者たちが出るのかと納得できます。
そうなると「進化の可能性」の余地がもうあまり残っていない跡部様は早くも負けてしまう予感がしてしまうのですが、どうなるかを待って考察してみましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?