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『新機動戦記ガンダムW』(1995)簡易レビュー〜構成的には若干の難があるものの、大筋の根幹と形式はしっかりした突然変異の名作〜

『新機動戦記ガンダムW』(1995)を久々に一気味したので、誠に簡易ではあるが改めてレビューを書いておくとしよう。

評価:A(名作)100点満点中85点


「形式的覇道×意味的覇道」という歴代でも類を見ない独自性の高い文体

本作の図式

最初に文体論的な観点からいえば、本作は歴代でも類を見ない独自性の高い文体であり、「形式」では従来の富野ガンダムの王道を装っておきながら「意味」ではむしろ富野ガンダムの真逆を行っているということだ。
これは本作の作り自体がそもそもコンセプトからして「1st〜Gの歴代ガンダムの圧縮と引き算」で出来ているからというのが大きいのだが、これを理解するにはそもそも1st〜Gがどのような位置付けであるかを押さえておかなければならない。

ロボアニメを含んだ日本アニメ史上最大のエポックメイキング、すなわちアニメ界における最初のヌーヴェルヴァーグである『機動戦士ガンダム』は文体論的にいえば「形式的王道×意味的邪道」であった。
これは70年代のロボアニメを『マジンガーZ』からご覧いただければお分かりだが、ファーストガンダムは作品の形式としては決して珍しいものではなく、70年代で使い古されたロボアニメやSF映画のエッセンスで塗り固めている
たとえば宇宙戦争の画面作りは明らかに『STAR WARS』だし(ビームサーベルなんてもろライトセーバー)、主人公アムロが父親の開発した強大なスーパーロボットに乗るという形式も『マジンガーZ』から続く伝統だ。
その代わりに、意味内容としては『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』と同じで「従来の形式を意味内容の観点から外すことで面白さとする」という富野監督らしい邪道(ひねくれともいう)で差別化を図った。

敵が異星人ではなく同じ人類同士で戦争し、その敵は必ずしも「悪」とはいえない人たちであり、主人公のアムロは決して兜甲児のような鋼メンタルではなく愚痴や泣き言を簡単に漏らしてしまう甘ったれである。
どうしても過大評価されがちな1stであるが、作品としての位置付けはあくまでも『マジンガーZ』から続く70年代型のスーパーロボットアニメの延長線上にあり、意味内容の上で崩した作品であった
そしてそれが『機動戦士Vガンダム』までの富野ガンダムの文体だったのだが、そこに大きなメスを入れて転換させたのが今川監督の『機動武闘伝Gガンダム』であり、あれは文体論的には「形式的王道×意味的王道」の作品である。
「Gガンダム」はそれまでのガンダムが頑なに取り入れなかったジャンプ漫画的な要素、すなわち「勝って勝って勝ちまくる」という「少年漫画的王道」の上に、意味内容の上でも「王道(仁徳を重んじる考え方)」を往く作品であった。

皮肉なことに、それを体現したのがガンダムシリーズであったが為に「ガンダムである必要がない」と謂れなき批判に晒されたが、「Gガンダム」は今川演出の奇抜さに惑わされず見ていけば間違いなく「王道ど真ん中」である。
そんな「Gガンダム」の徹底した王道の作りに対して、「ガンダムW」は同じことをやっても決して太刀打ちできないことを分かった上で、歴代ガンダム全ての要素を圧縮と引き算によって総括するという道を選んだ。
そこで浮かんだのが「形式的覇道×意味的覇道」であり、作品の形式としては徹底した「悪はどんな形であれ滅びる」というピカレスクロマンを敷きつつ、意味内容の上でも徹底して弱肉強食の構図が敷かれていた。
本作がなぜ人を選ぶのかというと、形式の上でも意味内容の上でも徹底した「覇道(武力で相手を制圧する)」にしており、あくまでも「弱肉強食」の図式が最終回で覆されるまでは尾を引くからだ。

したがって、本作は「とにかく力が強いものこそが勝つ」という「Gガンダム」以上に「弱肉強食」を徹底した作品であり、正に「王道中の王道」ならぬ「覇道中の覇道」を往った作品ではないだろうか。
キャラ付けやモビルスーツがああまでエキセントリックになってしまったのも全ては意図的に計算してのことであり、この複雑な構造がわからないと本作の魅力はとてもじゃないが理解できるものではあるまい。

情感を「寄って撮る」のではなく「俯瞰して強調する」演出と構成がもたらすもの

本作の構成と演出はわかりやすく言えばこれ

形式的覇道×意味的覇道」という本作が作り上げた文体がそうさせたのか、あるいは自然にそうなったのかは不明だが、本作は情感を「寄って撮る」のではなく「俯瞰して強調する」演出と構成になっている
ここをよく勘違いする人は多くて、男女ともに歴代屈指の美形揃いかつキャラ付けもエキセントリックなことから当時は「あんなのはガンダムではない」「ジャニ系ガンダム」「腐女子に媚びた」なんて揶揄されていた。
中には「こんなのは「ガンダム」ではなくただの「ガンダムパロディ」という公式の同人誌だ」というニュアンスのことを言っている人もいるくらいだが、そういう人は結局のところ1stこそが絶対的正解と思い込んでいるからではないか?
それこそ『テニスの王子様』が「腐女子向け漫画」なんてかつて揶揄されいたように、美形を揃えておしゃれなテイストでエキセントリックなことをすると、その奇抜さに目が眩んで本質が見えにくくなってしまうらしい。

確かに本作がある種の「パロディ」をネタ単位でも演出・構成の面でも含んでいるのは確かだが、本編の描写を見る限りいわゆる「腐女子」と呼ばれる層が喜ぶようなBLっぽいウェットな人間関係や描写はないのだ。
むしろそれをいうなら、その腐女子の成り上がりがそのまま脚本を担当した『機動戦士ガンダムSEED』の方がよっぽど腐女子に媚びた作りであり、特にキラとアスランの描写はもはや男の友情の領域を超えた気持ち悪ささえ感じる。
その点で言えば、本作は決してそういう層に向けて作ってるわけではないのだが、前作「Gガンダム」までのようにキャラクターの情感を殊更に寄って撮るような演出にはなっておらず、むしろドライに描かれてさえいるだろう。
面白いのは本作に出てくる登場人物、特に主人公のヒイロ・ユイは徹底して「泣かない」のであり、「叫ぶ」ことはあるし「感情で行動するのは人として正しい」と肯定しつつも、自身が感情に流されて動くことはほとんどない

そしてそれはヒイロに限らず他の4人も、またゼクスやトレーズらライバルキャラも女性陣もほとんど同じであり、エキセントリックなキャラ付けではありながら決して必要以上に感情を煽るような演出をせず淡々と流れていく
これは決して「淡白さ」を演出しているのではなく、あくまでも「映像の論理」が「物語の論理」に優先されるからであり、「心」は間違いなくあるのだがそれはあくまでも後から付いてくる形になっている。
ヒイロたちは綺麗なことも汚いこともあらゆることを厭わずやってのけられるし(富野や今川はこの辺に「照れ」「恥じらい」がある)、いい意味でドラマに依存しない作りだからストレスも少ないというわけだ。
逆に言えば、それはキャラクターもモビルスーツ・モビルドールも全てのものが「自立」していると同時に「自律」もしていて、だから「泥臭い」と感じる部分はあっても「みっともない」「下品」と感じる要素がない

1stの場合は特に前半でアムロを中心にホワイトベース隊のメンツが感情をぶつけ合い(特にリュウの死を悼む場面はその真骨頂)、Gの場合もやはりシュバルツ・キョウジや師匠の死に際しては大仰なまでに絶叫している。
そういう「感情を露呈させる」ことこそがある種の「ガンダムイズム」であったのに対して、「ガンダムW」は徹底してそういう場面を「必要以上に見せない」形にすることで、それがある種の「エレガンス」となった。
この「エレガンス」とは決して「立ち居振る舞い」や「容姿」のことではなく、それをもっと超えた強靭な「色気(存在感)」とでもいうべき本質的なものであり、それをアニメの上で擬似的にでも再現しようとしている。
私が「ガンダムW」という作品に対して共感できるのは何よりもそこであり、歴代のどの作品にもない独特の文体が最終的に独特の「エレガンス」を醸し出すに至っていることこそが本作の白眉であろう。

「国家」なき「混沌」のみが全てを覆い尽くす世界線

世界に唯一残された希望をどう見つけるか?

本作の世界観は前作をさらに推し進めた退廃的な世界観、もっと言えば平成〜令和の世界観にとても近いものになっており、「国家」が崩壊して「個人」が台頭した結果「混沌」が全てを覆い尽くす世界線となっている。
ヒイロたち5人のパイロットと5つのガンダムはウイングガンダムゼロを始祖とした圧倒的な強さを持った者たちだが、その強さが必ずしも劇中で両手挙げて肯定されているわけではない。
むしろ本作はそれぞれが単独でも戦局をひっくり返すレベルの強さの機体に乗っていながら、大局から俯瞰するとむしろほぼ負け戦しか演じていないのが大きな特徴だ。
そう、よく言われているようにヒイロたちはそれぞれが独立して動く個人事業主の集合体でありながら、5人揃っても勝てない戦いにはそもそも勝てないのである。

なぜこのような構成になっているのかというと、1つは前作「Gガンダム」に対する意識的なカウンター・アンチパターンとして作られているからだろう。
上述したように「Gガンダム」は「少年漫画的王道」、すなわち「勝って勝って勝ちまくる」という清々しいまでの王道を往き、更に意味内容に関しても最終的には「仁徳」こそが最も大切としていた。
つまり二重の「王道」を前作でやったからこそ、本作はその逆を行くように徹底してヒイロたちは負け続ける、すなわち「滅多なことで勝ってはならない」という形になったのである。
前作はとにかくドモン・カッシュが勝ち続けなければ世界は救われないし個人の幸せも手にできなかったのだが、本作は逆でピカレスクロマンの形式である以上簡単に勝てないようにできていた。

そしてもう1つは本作ではそもそも誰が「敵」で何が「悪」なのか、そもそも「戦って勝つ」ことに何の意味があるのか、という従来のシリーズがやってきた「枠」に対して徹底的に格闘している
1stの場合、最終的にはジオン公国を乗っ取ったザビ家が敷いた独裁政権を打ち倒せばそれで勝ちだったし(これは長浜ロマンの『超電磁マシーンボルテスV』『闘将ダイモス』から継承したもの)、Gの場合はデビルガンダムを打ち倒せば終わりだった。
つまり1st〜Gには「倒すべき巨悪」が存在していたわけだが、本作にはそういう巨悪がおらず、トレーズやゼクスですらもやはりシャアや東方不敗ほどの強烈な存在感をその画面で誇り主張することはないのである。
表面上は歴代の形式に則って「巨悪に立ち向かう主人公」のフリを描きつつ、実は物語が進んでいく中でヒイロたちにとって真に戦うべき「敵」「悪」は決してOZでもロームフェラ財団でもないことに気づく。

つまり、本作のやろうとしていることは結局のところ『進撃の巨人』と同じで「主人公たちの思い込みで行動した結果が全て裏目に出てしまう」のだが、進撃が「意味内容」からそれをやったのなら本作は「形式」としてそれを行っている。
どちらも「国家」が既に衰退し滅んでいき「個人」が台頭していくまでのプロセスを描いているわけだが、本作は中盤で池田監督が降板となり高松監督が『黄金勇者ゴルドラン』と並行して担当しなければならなかったが為に、中途の部分がわかりづらい。
だが、本作が「国家が滅び個人が台頭するまで」という、まさに平成〜令和までの流れを予見していたと思しき世界観にしたことで歴代のシリーズが如何に重苦しいものに縛られていたのかを逆説的に明らかにしてみせた。
高松監督が手がけた次作『機動新世紀ガンダムX』で「フリーデン」という、どこの組織にも属さない「渡り鳥」のようなフリーランスの集まりができたのも本作で「個人が台頭するアナーキズム」の成立を描いたからである。

ヒイロ・ユイという極めて屈折した主人公でなければ導けない結論

リーブラ落としを阻止してみせるヒイロとウイングゼロ

本作を語る上でやはりどうしても外せないのは「どうしてヒイロ・ユイが主人公でなければならないのか?」だが、本作は彼でなければ導けないピカレスクロマンならではの結論が最後に出てくるからだ。
ヒイロは歴代初にして随一の「クール・天才型主人公」であり、いわゆる越前リョーマらの先駆けともいえる主人公の始まりなのだが、ストレートに描ければそのまま「正統派カッコいい」になったはずである。
少なくとも従来の主人公に近いのはデュオの方なのだが、なぜ彼ではなくヒイロが主人公なのかというと、彼が客観的に見れば「強者」だからであり、前作のドモンとは対照的に実は根明でコミュ力も高い
「お前を殺す」というセリフが強烈すぎるだけで、ヒイロはトロワをはじめ他者とも普通に会話ができるし、何なら謝って地球連邦の平和論者を殺したことに対して贖罪すらしてみせることもあった。

ドクターJの戦争兵としての教育・訓練によって本来の優しさや純粋さが押さえつけられていただけで、ヒイロ自身は間違いなくアムロをはじめとする富野ガンダムやその延長線上にあるドモンと比べても健全な若者だ
ヒイロには甘さも隙も油断も一切なく、他者の痛みを感じる優しさはありつつも敵と見做した者に一切容赦しない排他性も持ち合わせ、なおかつ決めるべきところでしっかりと決めてみせる。
ドモンの強さが「精神的な弱さ・脆さ」を覆い隠すために「作られた」ものだとするならば、ドモンは割とアムロに近くパイロットとしての技量は天才的でも人格的にはコンプレックスの塊であろう。
その点、ヒイロの強さはゼクスが指摘していたように本物の強さであり、肉体的にも異能生命体レベルの屈強さを持ってる上に精神面もゼロシステムを克服して我が物にする強さを持つ、完全無欠の主人公だ

だからヒイロは良くも悪くも「他者」を必要としない、そんなものがなくても彼は十分に戦っていけるし生活もしていける、そんな少年が唯一の欠点として持っていたのが「自分を大事にしないこと」だった。
「命なんて安いものだ。特に俺のはな」なんていうほどヒイロはどこかで自分の命を軽んじていて、だから序盤では心臓部分の爆弾を押して死のうとしたし、ウイングガンダムを自爆させたのも命の重さをわかっていなかったからだろう。
そんな彼がリリーナをはじめとするいろんな人たちとの関わりの中で自分を相対化することによって、強者と思い込んでいた自分こそが実は一番自分を大切にできていない弱者そのものだと自覚するに至る
圧倒的な強者として人の羨望・嫉妬を集めるくらいに「完成された少年兵」だったヒイロだからこそ、「強者なんてどこにもいない!人類全てが弱者なんだ!」と「俺は……死なない!」が名言たりうるのだ。

これと同じことを少なくともアムロやドモンが言ってみせたところで説得力はないだろう、なぜならばアムロもドモンも「未成熟な弱者」だからであり、弱者だからこそ命の重さを最初から知っていた。
ヒイロはそんな彼らとは真逆のところにいたからこそ「命の重さ」に気づくまでに1年間もの時間を要したし、でもそんな強者のヒイロでなければウイングゼロ共々この世界の「最後の希望」にはなり得なかった
1話の「お前を殺す」と「俺は死なない」、そしてリリーナの手紙を破くヒイロとヒイロの手紙を破くリリーナのシーンが対比となっているのもそういう意味であり、本作はヒイロが「命の重さを自覚し、本来の優しさを取り戻すまで」の物語と言える。
それが結果として同じ名前の指導者ヒイロ・ユイの「宇宙の心」宣言を体現した形となったわけであり、カトルが最終的にリーブラの破片を撃ち落として生還したヒイロを「宇宙の心は彼だったんですね」と評したのだ。

まとめると、本作は1st〜Gまでの歴代ガンダムを圧縮・引き算しつつ、主人公たちを徹底した「強者」の位置に据え、敢えてその強者が実力でない部分で負け続け最後にようやく勝利を手にするに至る話として描いた。
しかもその描き方が決して重苦しいストレスに満ちたものではなく、あくまでもスタイリッシュで軽やかに俯瞰することで情感を強調する形にしたことで「ガンダムシリーズとは何か?」を浮き彫りにしたのである。
そんな本作の主人公はだからアムロ、カミーユ、ジュドー、シーブック、ウッソ、ドモンの歴代の何とも重ならず、またその後にも継承者のないヒイロ・ユイという「強者」でなければ導けない結論をしっかり描き切った。
道中に難こそあるものの、大筋の根幹として描きたかったものとその表現の形式においてはブレることなく、1995年にして既に1つの集大成を描いた逸品である。

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