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映像作品における「文体」と「色気」の関係、そして「批評」の意義・役割について考えてみる

最近、映画をはじめとするあらゆる映像作品を見て考える上で「文体」と「色気」について、特に後者の「色気(存在感)」というものについてある程度考えを整理・言語化してみたい。
いきなり『電子戦隊デンジマン』と『忍風戦隊ハリケンジャー』のレビューをわざわざ個別にマガジンまで作って驚いた人も少なからずいると思うので、まずはそれに関して何の事前告知もなく始めたことをお詫び申し上げます
なぜまた感想・批評を書き始めたのかというと、これらは言ってみれば叩き台というかリハビリも兼ねた「文体論」を中心にしたレビューの実践として「デンジマン」「ハリケンジャー」で描いてみようという試みです。
スーパー戦隊の中でもこの2作は比較的オーソドックスで言語化がさほど難しくないこともあり、本命である『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』の本格的なレビューを予定しているので、まずはテストケースとして。

一応『電磁戦隊メガレンジャー』も後3ヶ月くらいで配信の機会が来るかとは思いますが、これに関して書くかどうかは状況次第、一応「ギンガマン」の前座として書いておきたいが、そこまで強烈な意欲はわからないので検討中です。
そんな感じなので、今更スーパー戦隊シリーズの全作品のレビューをやる予定はございません、あくまでも本格的に書きたいのは「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」の3作のみ、後はぶっちゃけ見るだけでも十分で、それぞれの熱烈なファンが批評してくれればいいかなと。
で、最近は特にスーパー戦隊シリーズの「文体」、すなわち「3〜5人で構成されるチームヒーローがいかに巨大な悪の組織から地球の平和を守るのか?」がどのようにして表現されてきたのか?を改めて「文体」の点から考えている。
そして、その「文体」という観点(殆どは脚本×演出で形成されるものだが)から見た時に、真に優れた作品は単純な「脚本がいい」「演出がすごい」「音楽が優れている」といったレベルのことを遥かに超えて「色気」が凄まじく宿っている作品だと気付かされた。

「色気」について私は以前から「存在感」という言葉を使っているが、勿論これは「官能的(性的)魅力」のことではなく(殆どの人は「色気」と聞くとそれを連想してしまう)、「被写体が間違いなくそこに存在している」という滲み出る感覚的なものである。
これに関しては映画批評家・蓮實重彦が言語化してくれている。

ある人がそこにまぎれもなくいるということを、他人は何らかの形でいつでも説明したがります。主体と客体を安易に分断した上での、他人による支持や、他人による証明がある人を存在させているのだと考えられている。しかし、そんな証明書もなく、いかなる説明も必要とせず、ある人が、性別、国籍、年齢を超えて、そこにいるということが見えてしまう瞬間がある。その人が存在していることの色気を前にすると、もはや証明書は要りません。 他人による説明も必要ありません。 あなたは、まぎれもなく存在していますね、と言うしかない瞬間がそれです。

映像作品における「色気」とはナレーションなどのような言葉で説明をしなくても、そのキャメラに映っている被写体が画面に映っているだけで存在感があることが画面で表象されている以上に受け手の側にまざまざと語りかけて来ることではないかと私は思う。
言語化が非常に難しく抽象度が高い感覚の問題なのでわからない人には全くわからないものになってしまうが、例えば北野映画は役者は勿論のこと、何よりも「銃」に色気があるとミリタリーマニアの押井守監督は「ソナチネ」を例に絶賛していた。

「北野監督の銃って僕は「色気」があるように思いますね。で、すごく大事なことなんですよ銃に「色気」があるかどうかって……それは監督の意図するところとは違うというか、意図したものが必ずしも意図したからといって出なかったり表現できないところなんです」

ロシアンルーレットに使われる拳銃
寡黙かつ唐突に出てくる拳銃

例えばこの2つのカットをご覧いただければわかると思うが、南方師匠扮する殺し屋が寡黙に拳銃を構える真正面のカット、そして北野武がロシアンルーレットをした時に出る代表的なこのカット……いずれも拳銃の色気が凄まじい程に滲み出ている
北野監督は決して押井監督や鳥山明のようなミリタリーマニアではないために銃の知識が豊富な方では決してないと思うのだが、それでも映像表現としてそこに現れる「銃」は世界のあらゆる映画の中でも尋常ない「色気」があるだろう。
北野映画の怖くて美しいところはこういう銃を懐からスッと出して存在そのものを受け手に語りかけて来る瞬間を捉えられる天才的なセンスにあって、勿論銃を構えて様になる役者たちであることは大前提として、こういうものを表現できる文体を持っているのだ。
特に初期の作品は登場人物が必要最小限しか喋らないのだが、そのことによって決して言語化できない役者なり銃なり、あるいは刀なりといった被写体の「色気」を阻害することなく映し出すことに成功している

勿論北野武だけではなく小津安二郎や溝口健二など優れた日本の、あるいは世界の映画監督は作品自体がそうした色気に満ち満ちており、そしてその色気が滲み出てしまうほどの明確な「文体」をしっかり持っているのだ。
そしてこれは決して映画だけではなく、アニメ・漫画であろうが特撮であろうが似たようなものではないかと思うし、「デンジマン」の1話の感想で「説明する必要のないことを言葉で言わせているため「無駄な饒舌」になっている」と書いた真意もそこにある。
或いはパイロットを見た時に私が最も大事にしている部分は実は脚本・演出の出来云々ではなく、その映像に表象されている「ヒーローの色気」がきちんと画面上に滲み出ているか、存在証明ができているかを見て判断しているのだ。
私はそれを読む人にわかりやすく伝えるために敢えて「ヒーローに見えない」「ヒーローにしっかり見える」といった言葉で表現しているわけだが、ことスーパー戦隊シリーズにおける「色気」とはそういうものではないかと私は思う。

具体的にはまず変身前の5人の登場人物がファーストカットで出てきた時にきちんと「ヒーロー」に見えるかどうか、ここがまず最初のハードルであり、ここをクリアしていないとどんなに脚本が優れていても評価は厳しくなってしまう。
そして2つ目に変身後の5人のキャラクターがその変身前を踏まえた上できちんと動いた時にそのヒーローらしい存在感なり躍動感なりがどれだけ適切な時間と動きと距離感で表現されているか、ここがいわゆる演出家の力量次第となる。
最低でもこの2つをクリアした上で、作品自体が持つ「色気」がその時の作り手によってしか表現できない、真似・模倣・再現性が低ければ低いほどそれはより優れたものとなるわけで、そういうものこそがA(名作)以上の作品の条件ではないだろうか。
今までほとんどのスーパー戦隊シリーズをはじめとする子供向けの特撮番組はいわゆる脚本家の作家性=物語やそこに表現されているヒーロー像、或いはテーマ的な思想性がいかに優れているか?或いは映像演出に関しても「アクション」しか論じられてこなかった。

しかし、それで本当に作品を「見た」「批評した」とは言えないと思うし、結局のところそうした脚本・演出・テーマ・思想性・ヒーロー像といった特定の部分のみを抽出して語ることはそれ自体が「骨董品化」に繋がるのだと私は思う。
最近はスーパー戦隊シリーズの「文体」に着目して研究しているわけだが、そういう視点で見て行けば見ていくほど最終的にはその「文体」はいかにして「色気」を画面上で醸し出せるか?残せるか?を表現する手段・道具に過ぎないと気づく。
それはいわゆる以前私に「トイ・ストーリー」の記事に関して「演出」の観点からどうのこうのと私に訳のわからない突っ込み方をしてきた方や私が以前挙げた「ギンガマン」の評価に構成の難を指摘してみせた人たちのような単一の物差しでは測れないものではなかろうか。
確かに昭和・平成時代の映像作品の批評はそうした単一の観点から「作家性」という形で批評すれば良かったのだろうし、表層批評も実存批評も結局のところは「その作家・作品に共通する主題」を列挙していけばそれだけで十分に批評たり得た

しかし、時は令和、今はあらゆる複数の観点をハイブリッドし、更に縦の歴史として存在していた映像作品を全て横並びにしてフラットな形に平準化・相対化した上でのその作品をどう正しく位置付けていくか?が批評の意義・役割であると思う。
スーパー戦隊シリーズに関しても、昔は本放送を逃したらレンタルでしか見られないが、今では東映特撮FC・YouTube・Amazonプライム・ビデオ・Netflix・U-NEXTのようなサブスクで均等に横並びで見る機会に恵まれているのだから。
そんな中で改めてシリーズの作品のそれぞれを相対化し、それに相応しい位置付けや評価を適切に与えていき整理し、その中で本当に自分にとって合う作品とそうでない作品とを分けていくようにすることが大切ではないだろうか。
ただ、そんな中でも先人が残してきた批評の中で映像作品それ自体が持ちうる「文体」とその文体が画面に紡ぎ出す「色気」がどれだけあるのか?をしっかり見て適切な見直し・再評価を行っていくことにこそあると思えてきた。

ここ最近ずっと「批評とは何か?」について考えに考え、いろんな批評の書物を読み漁ってみたのだが、これからの時代にまだ映像作品の批評が紡がれていくのだとしたら、本質はどうもそこにある気がしてならない。

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