小林靖子脚本における捻れた肉親愛と孤独
ここ数日で平成ライダー評論家・批評家に喧嘩売るような記事ばかり書いているせいか、最近話題にしようと思ったことを語れずにいた。
先月末の4/30、10年来のオンラインでの親友・黒羽翔氏と初めてオフで会い、色んな話をしたのだが、その中で1つ知的好奇心を揺さぶられる質問をされた。
それは「小林靖子さんの作家性って世間に言われる「時代劇趣味」というだけなんだろうか?」であり、思わず私も虚を衝かれ何も言い返せずにいる。
確かに小林女史は特撮ファンの間でその名を知らぬ者はいないくらい(居たとしたらそいつは特撮ファン失格である)の知名度・認知度・貢献度がある作家だ。
またその作風もファンの間で色々語られているが、どうにも私にはその評価が群盲象を評すものであるかのように思えてならない。
小林靖子が特にメインライターを担当する作品でよく言われるのは以下の評価だが、その中でもスーパー戦隊シリーズに関しては以下の要素が挙げられる。
レッドが代理人(=2人のレッド)
劇中の描写・設定が重くて難解
後半〜終盤でどんでん返しを行う
主人公に過酷な運命を背負わせて虐める
男2人で話を進めがち(≒BL作家疑惑)
気が強い女性キャラが多い
伏線回収が凄くて物語が緻密
こういった要素が挙げられるが、どうにも私はそれら小林靖子ファン・信者が馬鹿の一つ覚えみたいに行う評価に耐え難い違和感を覚えている。
これらの評価は一見「小林靖子らしさ」を定義しているかのようだが、その実小林靖子という作家を勝手な幻想で神格化し骨董品扱いしていないだろうか?
同様のことは井上敏樹にもいえて、私は「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」が放送されていた昨年、白倉・井上ファンの方々がSNS界隈でいたく持ち上げているのが奇妙であった。
まるで「井上敏樹だから凄い」「小林靖子だから凄い」といった風に特別な作家として見られ過ぎであり、まるでかつての小津安二郎や溝口健二みたいである。
彼らもまた国内ではマニアックなファンが多いために偏った評価をされがちであり、神輿に担がれ神格化された骨董品として神棚に祭り上げる評価ばかりだった。
だが、井上敏樹にしろ小林靖子にしろ、まだまだ特撮ファンは本当の意味でこの2人の作家性や脚本の内実をきちんと語り得ていないのではないか?
このことに関して反論を試みたのがネット界隈で有名な「ジゴワット・レポート」の結騎了氏の記事である。
その中で彼は小林靖子脚本の特徴を「油絵の絵の具を剥がす」と定義し、以下のように語っていた。
なるほど、確かに小林靖子が「人物」を中心に描いていること、また会話劇が作品のテンポを阻害しないナチュラルさで進んでいくというところは確かにその通りである。
しかしながら、これとて私は既存の「小林靖子なるもの」に反論し「真のエッセンスとはこうだ」と定義することによって、別の意味での「神格化=骨董品扱い」をしている気がしてならない。
下の方でも「理知的」「論理的」「計算されている」といった「テクニカル」な印象を与えるが、それは果たして彼女の脚本「だけ」に特有のものだろうか?
そもそも作り手はともかくとして受け手である我々が小林脚本の回を見た上で、どこまでが彼女の脚本でどこからが演出家・役者の仕事かを見抜くのは容易ならぬことだ。
このことに関して、映画専門での仕事をしている学生時代からの親友は「作品が完成しそれが世に上がる時、全ての作家の色は完全に消えて調和が取れていなければならない」と語っていた。
「小林靖子だから凄い」のでも「長石多可男監督だから凄い」のでも「演じている役者が凄い」のでもなく、出来上がった作品に何が見えるかをきちんと見るところから始めないといけないと彼はいう。
そのように見る時、今までの私も他の特撮ファンの方々も実は軒並みそんな見方をしていたのではないかと思われる。
それが良い悪いではなく、人間というのは知識や知恵がつくとついそういう色眼鏡やフィルターを通して見てしまう生き物だから仕方ない。
そのことに気づくきっかけを与えてくれたという点において、黒羽翔氏の質問は鋭く的確なものであり、我々はまだ小林靖子という作家・脚本のことを真に理解したとはいえないのではないか。
作品の神格化=骨董品扱いが進んでしまうと行き着く先は宇野常寛・切通理作・山本弘・岡田斗司夫と似た「評論家を自称するオタク」でしかなくなってしまう。
例えるならそれは陶芸家が作った湯飲みを見て「この茶碗はここの造形が素晴らしい」と褒めるのと似たようなものであり、例えば以下の写真をご覧頂きたい。
この湯飲みを見て、例えば上記に挙げた方々なら「この湯飲みはこの色合いや造形が素晴らしい」「陶芸家はこんな思いで作ったに違いない」と語り出すだろう。
しかし、私にとっては「それは只の湯飲みなんだから早く茶でも注いで飲めよ」という感じで、陶芸家がどんな思いを込めて作ったかなんてどうでも良いのだ。
そのスタンスに切り替えてから小林靖子の書いたものを見直すと、実は作品は異なれど意外と面白い要素が手を替え品を替え描かれていることに気づく。
前置きがあまりにも長くなったが今回はその1つである「肉親愛と孤独」について、改めて私が思ったことを語らせていただこう。
小林靖子がメインライターを務めた5作品(『星獣戦隊ギンガマン』『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』『特命戦隊ゴーバスターズ』『烈車戦隊トッキュウジャー』)では「肉親」が出てくる。
具体的には以下の通りだ。
炎の兄弟・黒騎士兄弟・青山親子(『星獣戦隊ギンガマン』)
浅見親子・ユウリ親子(『未来戦隊タイムレンジャー』)
池波親子・谷親子・白石親子・花織姉妹(『侍戦隊シンケンジャー』)
桜田姉弟(『特命戦隊ゴーバスターズ』)
トッキュウジャー5人の家族(『烈車戦隊トッキュウジャー』)
結果論ではあるが、出来上がった作品を見ていくと「兄弟」「姉妹」「親子」といった形で必ず主人公及び関係者に「肉親」が登場する。
そしてその肉親たちの関係は「絆」で強く結ばれていたり衝突していたりするのだが、共通しているのはそこに絶対的価値が見出されていないことだ。
例えば「ギンガマン」ではリョウマとヒュウガ、ブルブラックとクランツが強い絆で結ばれているにも関わらず、青山親子は勇太が晴彦を特に前半では割と粗雑に扱っている。
「タイムレンジャー」では主人公の竜也と父が喧嘩して確執を生んでいたし、ユウリに関しては肉親を全て幼少期に失ってしまい親子の情愛をまるで知らない。
また、「シンケンジャー」の池波親子・谷親子・白石親子・花織姉妹もそれぞれ描き方は違えどそれが「安息の地」「自分らしくいられる場所」などと定義されているわけではないのである。
例えば流ノ介の父は1話の冒頭でしか出てきていないが厳格だったこと以外ほぼ描かれていないし、それと流ノ介が丈瑠に誓う忠誠心とは別のところに存在していた。
千明に関しても同様に最初はダメだと思っていた父親が実はとんでもなく凄いことを見直したものの、それで雨降って地固まる万々歳の話にはなっていない。
白石親子を描いた三十四幕にしても、あれは「親子の絆を取り戻す話」と見せておきながら、その実は茉子がシンケンジャーをやっていく上で欠けていたものを埋めるだけの話に過ぎない。
病弱な姉の代わりで戦っていることはにしても、そして桜田姉弟に関しても似たようなものであり、小林靖子は決して「肉親の情愛」そのものを肯定も否定もしないのである。
例外は最後のメインライターとなった『烈車戦隊トッキュウジャー』のライトたち5人とその家族だが、あれはあくまでもライトたちが「子ども」だからに過ぎない。
どんなに大人の姿を借りて戦士として戦っても子どもである以上限界はあるし、またトッキュウジャー5人も常々肉親のことを考えて動いているわけでもないのだ。
あくまでも「それはそれ、これはこれ」であり小林靖子が描く「家族」「親子」「兄弟」「姉妹」の関係には「運命共同体」という意識は実はとても薄い。
小林靖子は「絆」をメインテーマとして、特に戦隊だと「チームが1つにまとまって真の戦隊になる」というカタルシスを山場として持ってくることが多い。
だが、だからといって彼女はその絆が「運命共同体」「死なば諸共」というようなファシズム、同調圧力のようなものがまるでないのである。
それは井上敏樹が描く「泥くさい人間関係」とは違うものであり、他者に依存しているようで依存しないという独特の自立したキャラのあり方が面白い。
彼女がスーパー戦隊シリーズの歴史において「ポスト井上敏樹」としてその作家性を高く評価されているのも、それが大きいだろう。
そう、小林靖子が描く「家族」「肉親」は「人間関係を彩る一要素」にはなったとしても「登場人物の行動・言動を規定する価値基準」にはならない。
だから「タイムレンジャー」の最終回では浅見親子の歩み寄りとホナミが赤ちゃんを産みシングルマザーになるシーンとがほぼ対等のこととして描かれている。
一部では「ドモンがヤリ逃げした」なんて批判されていたが決してそうではないし、また昨今流行りの自称フェミニストが連呼するような「男女平等」といったものでもない。
そこに描かれているのは単に登場人物が「自分の意思でどうしたいか?」で動いた結果論であり、そこに実は論理的整合性や合理性と呼ばれるものはないのである。
それこそドモンとホナミの恋愛に関してもくっつくまでの過程は描かれたが、そこで結婚も何もなしにただホナミが産んだだけなんて誰が予想したであろうか?
些か唐突で「伏線回収」なんてものでは収まりがつかないのだが、小林靖子はなぜドモンとホナミの関係に関して、くっついた後の性的関係を一切描かなかったのかわからない。
確かに子供向けのスーパー戦隊でセックスなんて描けないだろうが、一番の理由は当の小林靖子自身が恋愛・結婚にさしたる価値を感じていないのだろう。
全50話もあったはずだから描こうと思えば描けたはずだし、それこそ井上敏樹氏とかならドモンとホナミの性的関係を匂わせる話も描いていたかもしれない。
井上敏樹は「ジェットマン」しかり「ドンブラザーズ」しかり、どこかで「恋愛」「結婚」と呼ばれるものに対して絶対的価値を見出していて、それを体現する人物を描く(天堂竜・雉野つよしなど)。
しかし小林靖子は井上敏樹と違い「恋愛」「結婚」を決して絶対視はせずあくまでも「選択肢の1つ」として、戦いの脇にそっと置いておくものとしてしか描いていない。
そしてそれと同じくらい肉親の関係性とそれ故に生じる孤独に関してもまた小林靖子は決して絶対視などせずに「登場人物がした選択」という結果としてのみ描かれる。
それこそ、以前記事にして書いた「ギンガマン」の「炎の兄弟」に関しても、実は前原一輝演じるリョウマと小川輝晃演じるヒュウガのドラマに合理性やロジックはない。
戦士としての実力は半年の死闘を経てもなおヒュウガが上であるにも関わらず、リョウマが尚自分の意思でギンガレッドとして戦う決意をしたこと自体は珍しくも何ともない。
また、戦士の交代劇自体が珍しいわけでもない、上原正三や曽田博久が描いていた初期の作品群も「戦士の交代」自体が描かれた例はいくつかある。
だがそれが「他に方法がない故の消極的選択」ではなく「自らの意思で決断した積極的選択」として描かれたのは「ギンガマン」のリョウマとヒュウガが最初ではないだろうか。
そしてその後4クール目でヒュウガはブクラテスの奸計でアースを失ったことで再び兄弟の絆は引き裂かれてしまい、彼らはまたもや「孤独」になってしまう。
もしこれが他の男性作家なら、何だかんだ「潜在能力や今の実力では完全にリョウマがヒュウガを超えた」としてリョウマを高みに置くであろう。
そうではなくやはりヒュウガが上だと示した上で尚リョウマが真のギンガレッドになる決意を固めたあのシーンは美しくもあり残酷でもある。
リョウマがギンガレッドとして活躍するということは本来あるはずだったギンガレッド・ヒュウガという選択肢がなくなってしまうのだから。
これを単に「油絵の絵の具を剥がす」「主人公に過酷な運命を背負わせて虐める」といった雑な言葉で形容し片付けてしまっていいものだろうか?
これこそ今まであまり指摘されてこなかった要素であるが、小林靖子メインライターの戦隊は「団結」を「絆」として重視する割に個々の人物自体は意外と個人主義でドライである。
また、チームを組んで戦っていることに対して有り難みを然程感じている様子もなく、家族や組織といった「共同体」を人物の拠り所としない。
何なら、その肉親愛は捻れていたり欠落があったりするし、親であろうと兄弟であろうとあくまで独立した存在として描いているのである。
一見戦隊ヒーローや時代劇趣味の文法に沿った紋切型と見せておきながら、何かしらの形でそこに「破壊」「掟破り」を行い登場人物を鋳型にはめるない。
それが見えてくるかどうかで、小林靖子脚本の評価や批評もまた変わってくるのだが、なるほどこれは単純な思想信条の変化を追うだけでは読み解けないものである。
その意味で、私たちはまだ本当の意味での「脚本家・小林靖子」について読み解けてはいないのかもしれない。
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