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「王道の不在」に関して文体論の観点から見る〜意味と形式はあくまでも表裏一体であり、どちらを中心に変えていくかによって表現するものは変わる〜

前回、前々回と「王道の不在」に関して「やるべきことをやり尽くしたためにそれ以上先の道を紡ぐことができない」というようなことを書いたが、そしたら面白いブーメランテリオスを黒羽翔さんから食らった、さすが親友。
ならばこちらもそれ相応の礼儀としてギャラクティカマグナム級で返す他はあるまい!

左フックと右ストレート

ということで論考なのだが、まず業界全体の資本主義をめぐる問題について本来ならば触れなければならないのだが、そちらは後回しにして、まずは作り手と受け手が創作に理解しておくべきことに関して理解しておかねばなるまい。
そもそも私たちが今日見ている映画・テレビドラマ・アニメ・漫画は表現媒体・形式こそ違えど共通しているのは「絵の運動の連鎖によって紡いでいくこと」であり、これに関しては蓮實重彦がはっきりと自身の著書で定義している。

人が映画から学ぶものは画面に描かれているものではない。また、画面の背後にあると想定される作者の精神を学ぶのでもない。視線に可能なことは、せいぜい画面を見ることでしかあるまい。ところで人は、画面を見ることによって何を学ぶか。見ることがどれほど困難であるか、というより、瞳がどれほど見ることを回避し、それによって画面を抹殺しているかということを学ぶのである。

蓮實重彦. 監督 小津安二郎〔増補決定版〕 (ちくま学芸文庫) (p.14). 筑摩書房.

蓮實の表層批評そのものは正直古びてきているが(繰り返し見ることができる今の時代は動体視力が問われないから)、「あくまでも画面の向こう側に何かを見るのではなく、画面に映っているものが全てであり、そこから逸脱した解釈は許さない」という点に関しては同意する。
彼自身は「映画には映像言語のようなものはないが、いわゆる「ショット」「カット」といったものは存在する」とも述べており、良質な映画は決して絶対的な正解などないにも関わらず、「これだ!」という作家独自の決定的なショットがあるのだという。
例えば小津安二郎の徹底したローアングルと真正面での切り返し、溝口健二の1シーン1カット、また北野武の「北野ブルー」と呼ばれる映像美など、映画史に名を残す作品や作家には間違いなく優れたショットが文体として存在している。
私は学生時代に認知言語学の基礎を勉強していたので、どうしてもそれを文体論として見てしまうわけだが、映画・テレビドラマ・アニメ・漫画の「絵の運動」がものをいうジャンルにおいても言語でいうところの意味と形式があると私は思う。

統語論と意味論を中心に学んでいたのだが、言語学の意味論の発展に大きく貢献したDボリンジャ−の「意味と形」は私自身も学生時代にページが擦り切れるほど熟読し、ゼミ論でもありがたく引用させていただいた。
その中でも「形式が変われば意味が変わり、そして意味が変化すれば当然形式も変化する」、つまり「形式と意味は表裏一体である」と述べており、この考えがいまだに深くあるせいか、私はどうしても作品を見る時に「形式と意味」で見る癖がある。
日本の英語教育で私が常々疑問に感じていたこととして、いわゆる「書き換え問題」というやつがあるのだが、例えばこの例をまず見てもらいたい。

He can swim very fast.
He is able to swim very fast.

この2つの英文はどちらも「彼はとても速く泳ぐことができる」という訳になるわけだが、実は厳密に言えばcanとbe able toは決して同一のものを意味していない
canに限らず英語の助動詞には根源的意味と認識的意味の2つがあり、尚且つcanにはability(実務能力)とpossibility(理論上の可能性)の2つがある。
だから前者は「速く泳ぐ能力がある」のと「理論上は速く泳げる可能性がある」の2種類に実は解釈できるのだが、後者のbe able toだと「速く泳ぐ能力がある」の意味にしかならない。
つまりcanという助動詞の意味の中にbe able toがあるという数学の集合で言うところの包含関係になっており、この違いをきちんと認識できている人がどれだけいるだろうか?

他にも、五文型の中のSVOOはよくSVO to(for) Oという形で書き換えるという習い方をするだろう、こちらの例文である。

I gave her my bag.
I gave my bag to her.

これも中学・高校では「私は彼女に自分のカバンを与えた」という意味になるが、細かいところでいうと実は大きく意味が違うことを皆様はお気づきだろうか?
どう違うかというと、直接目的語を2つ取る前者は確実に彼女に自分のカバンが譲渡されたことが結果として含意されているが、後者は必ずしもその結果を含意していない。
前置詞toを間に挟んでいるためカバンが渡されるまでに時間的あるいは物理的な距離があり、尚且つ彼女がそれをきちんと受け取ったかどうかはわからないのである。
もしかしたら受け取ったかもしれないし捨てたかもしれないという曖昧さが残るのが後者なのだが、英語学を習っていない人にはここまでのことは知らない。

そして意味と形で言えば、Xで予備校講師が面白い例文を紹介していたので、スクショだがこちらで取り上げておこう。

notはどちらを否定しているのか?

いわゆるnotが従属節を否定しているのか主節を否定しているのかだが、同じ例文でもこのように構造が紛らわしいばかりに解釈が分かれてしまう文も存在する。
ただ、この講師が提案しているonly becauseはむしろ主節の否定を強調してしまうことになるので間違いであり、従属節を否定するなら正しくはこうなるだろう。

She married him not because he was rich.

このようにすれば後者の「彼女は彼が金持ちだったから結婚したわけじゃない」という意味通りの形式になるわけである。
なんだか大学の講義をやってしまっている感じになったが話を戻して、いわゆる映像作品にも言語学でいうところの形式と意味は存在しているのではないかというのが私の考えだ。

じゃあその形式と意味が映像作品ではなんのかというと、形式は蓮實が指摘するところの「ショット」「カット」といった「カメラワーク」も含んだ「映像をどのように撮るか?」という画面上の形のことである。
そして意味とはいわゆる脚本、わかりやすく言えば物語やドラマの部分であり、東映特撮だと特に脚本家の作家性で評価されることが多いのだが、わかりやすく言えば「作劇」のことだ。
だから王道にしろ邪道にしろ覇道にしろ、「脱構築」にしろ「再構築」にしろ、大事なのは「形式と意味」をきちんと理解した上でどちらに重きを置いて作るのか?ということである。
特に昨今のスーパー戦隊シリーズにしろ少年ジャンプにしろ、この辺りのことをきちんとわからずして作っているからそもそもチグハグなことになってしまうのだ。

先日の記事で私はこのように書いた。

「ジェットマン」が意味内容(作劇)から、そして「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」が映像の表現形式・技術面からの脱構築を図り、これによってスーパー戦隊シリーズは一度バラバラに解体されていく。

例えば井上敏樹と雨宮慶太が中心となって手がけた『鳥人戦隊ジェットマン』はいわゆる『光戦隊マスクマン』がその先鞭をつけた「戦隊メンバーの恋愛・人間関係」という「意味内容」を中心にした脱構築が図られた。
前作『地球戦隊ファイブマン』までの80年代後期のスーパー戦隊シリーズの現場をきちんと知悉していた井上敏樹はその現場をこなしつつも常に曽田博久を中心とした作劇の分析・研究を行っていたはずだ。
その上で当時のスーパー戦隊シリーズに足りなかったのが「ヒーロー側の作劇があまりにも固定的かつヒーロー的すぎる」というものであり、それを打破するために人間関係のゲームを中心にした作劇を発想する。
これはおそらく自身が文学少年であり太宰治の『人間失格』などのような人間の業を深く描いた作品を体験して文学的語彙を蓄積していたことも大きく影響していたのであろう。

こちらの解説通り、そんな井上敏樹の作劇をどんな映像の形式として表現するかという段階になった時に、それまでテレビドラマを一本も撮ったことのない雨宮慶太を鈴木Pが呼んだのである。
もはや賭けに等しい危険行為でもあるわけだが、かつて『闘将ダイモス』の成功例や『機動戦士ガンダム』のようなロボアニメにおける脱構築の成功例を鈴木Pは経験していた。
それもあってスーパー戦隊シリーズにもその流れが来たわけだが、「ジェットマン」の場合はまさに「こういう意味内容(作劇)にしたい」が先にあって「じゃあそれに見合った映像演出の形式はこれ」と決まったのである。

そして杉村升がメインライターを担当した「ファンタジー戦隊三部作」、特に『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『忍者戦隊カクレンジャー』は「ジェットマン」とは逆に「こういう映像演出の形式・世界観にしたい」が先にあった。
それぞれの解説動画を見ればわかるが、「ジュウレンジャー」がドラクエのようなRPGっぽい浮世離れした世界観、「ダイレンジャー」が中華拳法や名乗りのケレン味を前面に押し出した芸術性の高いスタイルだ。
また「カクレンジャー」では和風っぽい西遊記のような世界観といったビジュアル面といった「形式」が決定し、そこから演繹的に「じゃあ、こういう意味内容(作劇)にしていこう」と決まったのだ。
そしてそんな無茶振りに対応できる力がある脚本家といえば井上敏樹を置いて他に杉村升くらいしかおらず、だから「ジェットマン」が意味→形式、「ジュウレンジャー」〜「カクレンジャー」が形式→意味という作りになっている。

そしてそれらを踏まえて今度は「再構築」の段階なのだが、例えば『星獣戦隊ギンガマン』で髙寺成紀を中心とした作り手は「王道中の王道を往く作品にしたい」と語ったのだが、以前にも書いたように髙寺Pのいう「王道」とは「形式的王道」なのだ
『電撃戦隊チェンジマン』以来となるイラスト型のアイキャッチ、複雑なドラマのないシンプルな勧善懲悪のスタイル、1クール1軍団という構成、そしてギンガイオーのモデルから逆算されたネイティブアメリカン風の衣装を纏った戦闘民族・ギンガマン。
「ギンガマン」というと、どうしても作風が非常に緻密で丁寧なことから小林靖子の作家性ありきで作ったように思われがちだが、実際は逆でまずは映像表現やモチーフなどの「形式」が先にあって、それに応じて小林靖子や田崎竜太が「意味」を付与している
そしてこれと逆で「意味的王道」として作られたのが翌年の日笠淳Pと武上純希・小中肇監督が中心となって作った『救急戦隊ゴーゴーファイブ』であり、あの作品では「戦い以外の戦闘の意味」だったり「ホームドラマ」といった意味内容が先立っていた

とまあこんな風に、映像作品を文体論の観点から見ていくと、その作品が「形式と意味」のどちらに比重を置いて作られているのか?を中心に見極めることが作り手にも受け手にも重要であり、この感覚がない人にいい作品は作れないだろう。
近年の作品が「王道=模範」がなくずっと「王道外し」「邪道」「覇道」といった類のもの、しかもだからといって本気で脱構築をやっているのでもなければ再構築をやっているのでもないという中途半端さの要因はここにある。
まずその作品が「形式」を中心にして変えていきたいのか、それとも「意味」を中心にして変えていきたいのか、また「脱構築」が目的なのか「再構築」が目的なのか、それをやってどんな面白さがあるのかまできちんと詰めて考えていない。
だから結局のところ近年の作品は「王道の皮を被った王道外しやってる俺らカッケー!」という小学生レベルの低次元の思考でしか作られてないし、「キングオージャー」なんてただのLEDウォールの技術紹介動画でしかなくなっていた。

そんなに王道をストレートに語ることに対して躊躇いがあるのなら、新しい形式を過去の分析・研究を行った上で作ってみせてみたらどうなんだ?
でもそんな労力のかかることは嫌だからとりあえず形式だけは王道風を装い、しかしだからといって脱構築を用意周到にやってみせるだけの努力すらもしない
そうやって作った結果、そもそも「王道」だ「邪道」だ「覇道」だと受け手が評する以前に映像の形式と意味内容(作劇)が噛み合ってない、つまり「作品ですらない」ものばかりが出来上がる
まさに翔さんが言った通り、「何をやるべきか」すらわかってないような奴らが作り手をやっているのだから、そりゃあそんなもの見せられる受け手がわからないのは当たり前のことだろう。

悔しくないのか東映よ!集英社よ!あんたら結局のところ『星獣戦隊ギンガマン』『ONE PIECE』に取って代わる新時代の王道すら生み出す力もないのか!
そんなザマで延々とくだらない王道外しにすらなってないリソースの無駄遣いばっかやってイキがって何が面白いんだ!

まあこう叫んだところで、今の腐った体制がどうにかなるわけじゃないだろうが、それでもちゃんとモノをわかっている大人が少しでも声を上げていかないとね。

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