『笑って人類!』は『ドグラ・マグラ』だ!

『笑って人類!』は『ドグラ・マグラ』だ。全然違うのは確かなんだけど、思っちゃったんだからしょうがない。『教団X』でもある。こちらはもっと違う気がするけど、思っちゃったんだからしょうがない。

「笑って人類」は奇書である

笑って人類はある種の奇書だと思う。ふつうの小説ではない。とても名文美文とは言えず、読書家に褒められるような文体ではないだろう。だけどそんなの司馬遼太郎やそれこそ夢野久作だっておんなじだ。もともと脚本として書かれたと言う笑って人類が小説としてこなれていないのは致し方ない、と思うことにしよう。
逆にそれが利点にもなっている。場面が目に浮かびやすいし、しっかり読み込まなくても目をすべらせただけで読み進めることができる。二段組というのも一行が短くなるので視点の縦移動が少なくて済む。頭に入らなくて前のページを読み返すなんてことはまずない。

ドグラマグラはあえて難解に難解にしていった感があるので、そこはやっぱり全然違う。では何が似ていると思ったのだろう。両方読んだ人は「そうだ同じだ」と賛同してくれるかもしれないが、読んでない人のために頑張って説明してみたい。※ネタバレなしで

「笑って人類」と「ドグラマグラ」、ついでに「教団X」

まずどちらも大作だ。実際の読みやすさには雲泥の差があるけれども、どちらもおいそれとは手を出せない雰囲気がある。作者が全身全霊を傾けた力作という感じである。そしてミステリー要素で物語を引っ張っていき、あっと驚く事実が明らかになっていくのも同じだ。そこにコメディ要素やホラー要素などをまぶしている。世相や科学技術を踏まえているのも似ている。どちらもSF作品なのである。そして、そういうものの根底にある作者の思想や哲学が隠しきれないくらいに染み出しているのも同じである。

その他にも似ている点としては、作中作が出てきて重要な(奇妙な)役割を果たすということや、作中人物の口を借りて哲学的な作者の独自理論が開陳されるところ、などがある。
哲学的な作者の独自理論が「論」として語られる場面は教団Xにもあった。世界って人間って本質的なところはこうなんじゃないか、と。作家性があふれでているところが共通だなと思わせるのだ。そういうところでこの三作は似ていると思ってしまったのだが、読書家の皆さんで賛同してくれる人はいないだろうか、、、

「笑って人類」の感想、ただの印象

ここからは笑って人類の感想を、具体的なことはなしで印象のみさらっと語って終わりにしたい。
よい小説は人物が描けているなんて言われるが、笑って人類はどうだろう。まあ人物を深掘りするタイプの小説でもないしそういう雰囲気でもないから当てはまらない気もする。でもところどころのシーンは核心を捉えた心理描写になっていると思う。漫画でいったら熱い場面でいわゆる名セリフが出てくるような感じで、一方でギャグの場面では絵のタッチまで変わっているような感じで。だから典型的な文学作品としての見方だと人物が描けてないになってしまうかもしれないが、現代的なストーリーとしてはこういうものなのではないだろうか。
描写も、凝ってないというかちょっとステレオタイプ的とすら思えるところがある。よく言えばすごく分かりやすい。文学芸術としての評価は高くないかもしれないが、これもこれはこれでと思う。
SF的な部分については、仕掛けも技術の中身も現代的なのだけれども描写の仕方だけがどうも古い感じがする。映像化するならいいスタッフがついてこの辺の欠点は全部一掃されるんじゃないかなと思ったりする。

作者、太田光という人はいろんなところでいろんな発言をして話題になったりしている。テレビでの発言やネットで炎上記事を見て知っている人がこの本を読んだら、意外な太田さんの一面を知るということになるのかもしれない。ラジオリスナーや著作を読んだことのある人がこの本を読んだら、最新の「太田はこう思う」として受け取るかもしれない。確かにその一面はあるのだが、ストーリーにのめりこんだり心をぎゅっと掴まれたりする瞬間も確かにあるのだ。これはちゃんとした小説だ。ちゃんとした奇妙な小説だ。

まとめ

以上、『笑って人類!』の魅力を書いてきたつもりがうまくいかなかったようである。奇書であると書いたが奇書の定義って何なのか。読書量も大したことないのにあれと似ているとかこれがこうだとか言っても何の説得力があるのか。だから誰かに本当にそうなのか確認してもらえたらうれしい。
語彙力なんてワードが多用される昨今、あまり使いたくないワードではあるのだが、ここまで書いてきた上でなら自分の語彙力のなさを嘆いても許されるのではないでしょうか。ああいびつな文章

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