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書き出しで選ぶ、ブンガク名作

“僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない”
『アデン・アラビア』ポール・ニザン
“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい”
『草枕』夏目漱石

僕たちはかつて20歳だったか、これから20歳になるか、今まさに20歳であるか。そのどこかに属している。

いまここにいる僕にとってあなたにとって、もっとも美しいときはいつだろう。純粋無垢だった幼少期とか、新たな経験を積んでいるであろう未来とか。そう答える人もいるだろうけれど、子供からは大人に見え、大人からは若さを羨まれる青春期を挙げる人が多いはずだ。

青春は短い。やるべきことが提示され、選択肢が無数にあると言い含められ、今やることが将来に影響するんだからと諭される。なにも保証はしないけどね。

権威に従うにしろ偶然に身を任せるにしろ、そんな時期に本を読めと言われても何を読んだらいいかなんてわからない。

時間は進み続け、毎年ノーベル文学賞が誰かに授与されもはや100人を超えている。芥川賞と直木賞に至っては毎年二回だ。過去に受賞した作品を読むだけで500作を優に超える。他にも名作とされがちな本はたくさんあって、そんなに時間をかけられるものでもないしかける必要があるかもわからない。

そんな時に、書き出しから選ぶという選択肢があれば助かったなと思う。ジャケ買いよりかは当たりそうな、自分の直感で選ぶ一つの基準になれば。

それに、冒頭は話はじめとして自分の生活にも流用できる。読み手の想像を掻き立てるようじっくりと考えられた文章を頭に叩き込んで血肉として、これからの武器にしたい。

このnoteでは10つの書き出しを提示して、少しだけ興味をそそるようなエピソードをつけている。どうしても冗長になるきらいがあるので、まとめて二つずつ混ぜてみた。

はじめに挙げた2つのほか8つの書き出しを先に羅列しておく。

“ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。ロ。リー。タ”
『ロリータ』ナボコフ
エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える”
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ
“ある朝、グレゴール・ザムザが嫌な夢から目を覚ますと、ベッドのなかで自分が巨大な虫になっているのに気がついた”
『変身』フランツ・カフカ
“今日、ママンが死んだ。あるいは昨日だったか。わからない”
『異邦人』カミュ
“幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。”
『アンナ・カレーニナ』トルストイ
“分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない”
『モルグ街の殺人事件』エドガー・アラン・ポー
“誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある”
『幻獣辞典』ボルヘス
“一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる”
『重力の虹』トマス・ピンチョン


①年齢と転換

“僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない”
『アデン・アラビア』ポール・ニザン
“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい”
『草枕』夏目漱石

『アデン・アラビア』は20歳、『草枕』は30歳の体験を元に書かれた。どちらも私小説の匂いが濃い短編小説だ。

20代と30代。共に人生の転換期とされる時期の入り口に立った人物の思索は時にゆらぎ断定でまとまり、激情でまたバラバラになる。

それぞれ1926年と1897年の出来事。社会は激動していた。フランスにおいては第一次世界大戦後、資本主義の進展で政治とエリートが硬直した情勢を作り出す。日本では明治維新と西洋化の波が押し寄せる。

ニザンはフランスから逃亡しアデンへ、漱石は教師として東京から離れた先の熊本へ。

共にエリートだった。パリの高等師範学校と東京の帝国大学は、当時のもっともすぐれた官僚的な学校。国が運営する学校は、激しい時代に対応するべく設立された国の機関であり、生徒は戦力とみなされる。

どちらも当時の時代からすれば恵まれた環境だったろう。そんな彼らがなぜ辺境に行ったのか。

西洋を腐敗したと断罪し、異国を求めてアデンに旅立ったニザン。楽園とみなしていたアラビアの地は、結局西洋と変わりがない絶望にまみれている。彼が最後に引き受けたのは、自分の憎しみと上手くやっていくこと。その出発点の逡巡から抜け出すべくなされた力強い宣言が『アデン・アラビア』の冒頭だろう。

30歳はもう少し大人だが、それにしても“とかくに人の世は住みにくい”は悟りすぎな気配もする。大学入学当初から厭世主義に飲まれたのであれば、10年以上かけて熟成された賜物が30代の危機か。失恋や病気も重なり、東京の英語教師を2年で辞めて愛媛、熊本と離れていった先の出来事を書いた作品が『草枕』だ。

100年も前の悩みが今も変わらず共感できる。いいことなのか悪いことなのかはわからないが、先人がいることに安心はする。


②性と生

“ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。ロ。リー。タ”
『ロリータ』ナボコフ
エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える”
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ

三大欲求のうち、性欲だけはとにかく隠される。その理由は、とにかく得難いからだ。得難いのは相手がいるし時間軸が長いからで、と理由が続く。

生物学の言葉を使うと、ホメオスタシスの観点で食欲と睡眠欲は個体としての恒常性の維持に必要とされ、性欲は種としての恒常性のために存在する、となる。

なにはともあれ得難いものほど欲されて、創作で補完される対象ともなる。

ひとつめ。相手がいるから難しい、という観点で性欲を語れば恋愛小説になる。

『ロリータ』の冒頭を読んで欲しい。ロリータとは少女の名前であり、主人公ハンバート・ハンバートの独白から物語は始まる。

口に出して恋する相手の名前を呼ぶ。相手の苗字を自分の名前を繋げてしまう乙女のように、言葉で客観的な音にすることは狂おしい慕情のいきつく最果てだ。

当然「ロリコン」=「ロリータ・コンプレックス」の語源ともなった小説なので、この恋はどうしようもなく歪んでいてすれ違っていく。すれ違うというのもはばかられるほどの一方通行。最後の数ページまで読んでただ気持ち悪いと吐き気を催すか、そうポーズは取りつつ内心は笑えないかで人は二種類に分けられる。

ふたつめ。性欲は時間軸が長い、とはどういうことだろうか。性欲の目的は種の保存と進化つまり連続で、子供を作り産み育てることには大きなコストがかかる。しかも、自分自身ではなく別の個体だ。

バタイユに言わせれば、食欲や睡眠欲は個体としての持続や成長に焦点があり、エロティシズムは死と生殖の領域に侵入するための鍵となる。

個体として生きるには禁止を守らなければならない。社会的な動物である我々は、学校で会社で家庭で直接的な欲望を禁止によって制御し、エネルギーを調整して社会を回している。その禁止は絶対的な禁止ではなく、侵されることを前提とした禁止だ。禁止に従うことと、時に死と生の禁止を侵犯して恋人と溶け合ったり宗教に没頭することは、人間という存在の両輪となっている。

ただし、過ごす時間としては禁止の方が圧倒的に長い。人が死ににくくなった現代、人口が増えすぎていると言われている今、性への扉を狭くしているのは社会の要請そのものだ。その扉の開け具合が難しいのだが。

個体を超えて、人間としての、生物としての、物質としての連続性に回帰すること。それは生活に対する奢侈であり、必要であるにもかかわらず制限されていて、より価値のあるもののように強調される。

そうやって自分の恋をもっと大きい文脈に置いて眺めれば、少し冷静になれるかもしれない。それとも、だからこそ冷静さを保てないような生の賞賛に踏み入れたいと思いを強くするか。


③自分と社会

“ある朝、グレゴール・ザムザが嫌な夢から目を覚ますと、ベッドのなかで自分が巨大な虫になっているのに気がついた”
『変身』フランツ・カフカ
“今日、ママンが死んだ。あるいは昨日だったか。わからない”
『異邦人』カミュ

人間が社会的な動物であると実感するのは、一人で自然の中に放り込まれた時だ。周りに何の気配もなく人工物もない状態で何日も過ごした後に帰ってくると、お金を払うだけで出てくる牛丼とかコーラに感動する。大げさでなく、涙が出そうになる。

そんな状況ですら、僕の着ているゴアテックスのレインウェアがなければ成り立たなかったりする。連綿と続く技術開発と改良の果てに考案され、材料が採取され、工場で作られ、誰かの手によって届けられた代物。服に限らずそんなギアが無数にある。

僕らが皆ベア・グリルズとかエド・スタッフォードだったら無くてもいいのかもしれないけれど、全員をサバイバルの専門家に育成するコストの方が高くつく。

人間に限らず連続性にとらわれた生命はすべて社会的とも言えるが、人間の場合は密接と依存の度合いが甚だしい。だから軋轢が起きる。ハリネズミのジレンマのように。

カフカもカミュも、「不条理 文学」で検索すると真っ先にヒットする不条理文学の二大巨頭と言っていい。

ざっくりとした違いは、カフカの不条理は内向きで、カミュの不条理は外にあることだ。

『変身』において、問われているものは主人公の姿勢にある。虫になった自分を家族がおろおろと受け止め、主人公は何もしない。家族は少しずつ変わっていくが、虫は虫のまま勝手に死んでいく。

『異邦人』において主人公は異邦人で、行動の原理はめちゃくちゃで理由が分からない。母親が死んだのが今日のか昨日なのか、それすら定かでない。外から見れば性欲の塊であり異常者。しかし彼の内面は幸福である。そんな不気味さを受け入れられない社会は正義を振りかざし、排除しにかかる。それでいいのか?

カフカは恋多き人であった。結婚願望も強かったという。しかし、いつも土壇場でしり込みしてしまう。家族との、特に父親との関係が大きく影を落としていたとされる。その姿は自分の居場所がない社会を目前にしてうろうろする『城』の主人公に重なる。

カミュは、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力への反抗を描く。
戦争とも呼ばれたコロナ禍は、人間を襲う不条理の性質をすべて満たしていて、『ペスト』が読まれるようになったのも記憶に新しい。

さて、病気はどこからが不条理なのだろうか。

不条理とは、まず条理があってからの逸脱を定義する言葉だ。条理とは筋であり、人が未来に渡って存在することを前提としている。だから、突然の死は不条理となる。

では、どこまでが条理か。若くして難病となったら不条理だろう。60歳でコロナで亡くなっても不条理かもしれない。平均年齢が80歳を超える現代日本では、寿命で死ぬ以外は不条理だろうか。

だとすると、世の中が不条理であふれているのも当然だ。どこまでを当たり前とみなすかは、社会とどう向き合うかの根底をなしている。

それは自分自身の能力次第でもある。エド・スタッフォードにしてみれば、ナイフ一本で未開の地に投げ出されたって、さほど文句は言わないだろう。

カフカの友人マックス・ブロードは「君は君の不幸の中で幸福なのだ」と手紙で書き送っている。僕もその説を推したい。ユーモアで絶望を乗り越えるのだと。

『変身』を朗読して聞かせるカフカは、楽しそうに笑っていたとされる。


④主観と分析

“幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。”
『アンナ・カレーニナ』トルストイ
“分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない”
『モルグ街の殺人事件』エドガー・アラン・ポー

「アンナ・カレーニナの法則」なるものが存在するらしい。

例えば幸福であるためには10個の要素が満たされる必要があるとして、成功したケースは10個の類似点がある。1通りしかなく、当然似ている。反対に、不幸なケースは10個のどれが欠けているかによって$${2^{10}-1=1,023}$$通りものパターンが存在する。1つだけ欠けている家庭と8つも欠けている家庭の様子はだいぶ異なるはずだ。

もちろんトルストイ自身がそう説明したわけではないが、なんとなく納得させられる。

ところで、幸せの条件を満たす家庭は本当に幸せなのだろうか。エドガー・アラン・ポーの小説に出てくる主人公に問うてみれば、外から見ればそうかもしれないが内面の本当のところはわからないね、と語りそうだ。

エドガー・アラン・ポーはアメリカの小説家で、『モルグ街の殺人事件』は史上はじめての推理小説とされている。エドガー・アラン・ポーから筆名を取った江戸川乱歩の表紙を目にして「江戸川コナン」と工藤新一が名乗ったことは有名だ。本作の主人公オーギュスト・デュパンはコナン・ドイルの産んだシャーロック・ホームズの原型となっている。

探偵は客観的な事実を元に分析し、客観的な事実を解き明かす。そこにあるのは解かれるのを待っている謎だ。

幸せが客観的な事実に基づくのであれば、「アンナ・カレーニナの法則」が当てはまる。例えば幸せな家庭にはお金があり、地位があり、家あり、結婚した男女がいて、子供がいる。それらが必要条件であると。

外から見れば、あぁ幸せな家庭だなと羨まれるかもしれない。しかし、その家庭に所属する個人の内面的な幸せはどうだろうか。それは精神の作用によって決まるのであって、推測はできても分析はできない。

主人公アンナ・カレーニナは地位の高い夫を持つ美貌の女性である。ではなぜ敢えて不倫をするのだろうか。その果てに身を投げるのだろうか。だからと言って、幸福でないとも言い切れない。彼女を誰が断罪できるだろうか。幸せでなかったと決めつけられるだろうか。人はどう生きればいいのだろうか。

同じくロシア人作家のドストエフスキーしかり、最後は神に帰ろうなんてなりがちなのだけれど、これほど壮大で緻密な物語がそこに収斂するのは単調。そう思ってしまうのは、現代の価値観の濫用かもしれない。

現実にあったトルストイの家庭は、幸せの条件を十分すぎるほど満たしていたはずだ。存命の時から得ていた世界的文豪としての名声と印税、伯爵という地位、妻とたくさんの子供たち。

50歳のとき、トルストイは『アンナ・カレーニナ』を含むすべての作品を否定し、すべてを捨て去ると決意。30年ほど妻や子供たちに引き留められたあげく、ついに82歳で家出した。それを知った妻は池に身を投げた。

家出から4日後、世紀の文豪は極寒の汽車で肺炎にかかり、駅舎で死んだ。


⑤魔術とパラノイア

“誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある”
『幻獣辞典』ボルヘス
“一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる”
『重力の虹』トマス・ピンチョン

僕はボルヘスの良さを十分にはわかっていない。というと怒られそうだが、詩を味わう能力があまり育っていないのでと弁明すれば納得されるかも知れない。

ボルヘスはマジック・リアリズムを代表する作家とされる。その生い立ちは、家系に詩人や文学者がいて、5,000冊の蔵書に囲まれて育った南米の少年をイメージすればわかりやすい。文学を学び、若い頃から作家として活動していた。

ゆったりとした生活の中で本に埋もれる。そんなイメージを思い起こさせる書き出しは、読書家であれば誰もが賛同するような文句。幻獣事典は本の中に出てくる架空の動物たちを集めた、空想に空想を重ねるような本である。

日本から見れば20世紀前半の南米というだけで神秘的だが、マジック・リアリズムは日常と非日常がごちゃまぜになるジャンルだ。夢や神話、円環といったモチーフがさも当然かのように居座っている、不思議な短編たち。

そんなボルヘスも、実際的な政治に振り回されていた。図書館司書として働き始めた後、異動や軟禁を経て、政権交代により回復。図書館館長に任命され、大学教授にもなった。

ピンチョンは北米で長編ばかりを世に送り出す覆面作家だ。工学部応用物理工学科に進んだのち海軍に所属。その後英文学科に入りなおした後、ボーイング社で働きつつ作家として本格的な活動を開始した。1960年頃の話だ。今回挙げた中で唯一存命である。

ピンチョンの小説では、エントロピーをはじめとした物理学的な蘊蓄があったかと思えば、謎の忍者が暗躍しだす。科学とオカルトが、SFとポップカルチャーの味付けでごった煮にされたような。理性と偏狂の協奏曲。

人の感情や不条理さえも原動力にして、あらゆる知識や経験を注ぎ込んで完成したのがロケットだ。ロンドンに落ちるための制御装置にはあらゆるアイディアが詰め込まれ、ドーバー海峡を渡り切る燃料のためにあらゆる試行がなされた。

その背後にあった諸々は、決して綺麗でなかったに違いない。『重力の虹』はごちゃごちゃと錯綜し難解な筋で成り立っているが、それはそのままロケットの成り立ちと対応しているかのようだ。

そんな人の技術の粋が、一筋の叫びとなって飛んでくる。整った金属の塊として、合理も狂気も含んだ全ての歴史を背負って。

本の中にいる人間の閉じた空間で繰り広げられる魔術か。社会の構造に垣間見える不気味さを追求するパラノイアか。

普段見過ごして当たり前のように生きている日常を少し引っ掛けば、隠された深淵が顔を覗かせる。すぐそばにいるよという目配せに、ぞっとする瞬間が。


⑥おわりに

タイトルでブンガクと書いた。これは目を惹くようにとの意図もあるが、もう一つには箱としての役割を担ってもらうためだ。

なにか文を推奨するときに、本や文学である必要はあるだろうか。例えば本と表現してもよかったかもしれない。しかし『草枕』は青空文庫になっていてネット上でいつでも読める。初出が本だったからと言い訳すれば、新聞やネットに載った文章をまとめた本は本ではないのか、なんて詭弁をぶつけられても堪らない。

ブンガクはLiteratureの訳語で、西洋的な体系だったものというイメージも含有されている。西洋というイメージが入ればどんな不合理でも受け入れてしまう傾向のある日本文化においてはとても便利な言葉だ。

曖昧さに気持ち悪さを覚えるのであればLiteratureを辿っていけばよい。すると何かしら芸術 = Artを含むものとたらい回しにされる。Artの中でもっともしっくりくる定義は、表現と鑑賞の相互作用によって変動を得ようとする行為というものだった。

どう呼称しようと、僕が何かを読むときに大事にしているのは言葉を使って何かしらの変化を得ようとする意志だ。変化を求め続ける限り、過去の自分を引き受けて未来に期待する今この瞬間が頂点になる。

僕が何歳であっても、いまが人生でもっとも美しいときだなんて自分で嘯いていたい。



出典
『アデン、アラビア/名誉の戦場』ニザン 小野 正嗣訳 河出書房新社
『草枕』夏目漱石 青空文庫
『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ 若島 正訳 新潮社
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ 酒井 健訳 筑摩書房
『変身』カフカ 『若い読者のための文学史』ジョン・サザーランド 河合 祥一郎訳 すばる舎 
『異邦人』カミュ 窪田啓作訳 新潮社
『アンナ・カレーニナ』トルストイ 中村 融訳 岩波書店  
『モルグ街の殺人』エドガー・アラン・ポー  佐々木 直次郎訳 青空文庫
『幻獣辞典』ホルヘ・ルイス・ボルヘス 柳瀬 尚紀訳 河出書房新社
『重力の虹』トマス・ピンチョン 佐藤 良明訳 新潮社

 ※海外文学には訳の違いがあり、特にカフカの『変身』は多くの訳がある。今のひとにとって一番冒頭だけ見て入ってきやすそうな訳を選んだ。変身の対象は「毒虫」と冒頭で訳されるのが伝統的だが、日本語には普通に用いられる適当な単語がない。カフカ自身は虫を具体化することを避けていた。意図を汲めば迷惑な役に立たない虫あたりが正確と考え、さらに文のリズムも考慮すると単に虫とするのが適していると感じた。原文のドイツ語Ungezieferは害のある虫や小動物という意味合いで、英語訳ではvermin(害虫や害獣), bug(虫に近い), insect(昆虫)と分かれている。

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