宇佐見りん『くるまの娘』と家族の現代病
芥川賞を獲った『推し、燃ゆ』を読んで、『かか』にもあてられて以来ずっと気になっている宇佐見りんさん。その最新作が文藝の春季号に載っていて、評判がとてもよさそうなので手に取った。今日読み始め、そのまま読み終わった。
とてもよかったので、誰かが手に取る後押しになるように読書感想文を書いてみる。僕が主に参考にしたのはTwitterのタイムラインだったけれど。
ネタバレ要素は薄目ではあるが、ストーリーの内容を書く部分には注意を付してあるので、気になる方はそこで止まってほしい。
○○と娘
前2作では、母と娘の文脈で語られていた。『かか』はタイトルからして前面にテーマが出ているし、『推し、燃ゆ』も推しと自分との関係を描く上で、母と娘の関係が根底にずっと影を落としている。
そう思う、というのは布教のためどちらも貸していて手元にないためだ。
なのでどこがと具体的には言い難いけれど、独白調なのにどこか他人事のような美しい文体が、主人公の心情の揺れるにつれてどろっと変化する表現が好きだった。
作者自身が育ってきた環境や見てきた事柄がそのまま投影されているであろう、主人公たちの視点の生々しさ。書かずには生きていけない人が産む文字列が文学だとすると、これ以上文学に相応しい文章はそうないだろう。
『車の娘』でも表現と熱意は変わらず、変わっているものは主人公たる娘と関わる人物だ。母と娘の関係もあるけれど、もっと広く家族にとっての抜け出せない状況が描かれている。今までの作品が主人公という個人にまつわる行き詰りを描いているとすると、家族自体を一つの個体つまり人とみなしているように読んだ。
物語の具体的な要素としての重苦しい現実は、すべての家庭に当てはまるものではない。僕自身、世間的に見ると恵まれた家庭に育ったと思っているし、取り立てて両親に対する不満はない。普段は。しかし、思い返してみるとまるっきり幸せばかりの順調な家庭だったわけではなかった。『くるまの娘』を読んでいると、昔の自分自身の葛藤や家族の軋轢が実は薄氷を隔ててすぐ近くにあったのだと背筋が凍りつく。
表現については実際に読んでいただく他ないので、ここでは「現代病にかかった家族」という一面から見た感想文を置いておく。
「現代病」
僕は『くるまの娘』を、現代病にかかった家族の行き詰まりとして読んだ。
現代病とは、花粉症や自己免疫疾患を指す。名前の通り現代になって増えてきた病気であり、その理由の一つに「衛生仮説」がある。
衛生仮説とは、人の接する感染症を筆頭とした外の存在が減ったため、人間の免疫機構が自己と非自己を識別する能力が低くなっているのではないかという仮説だ。実験的には確かめられているらしい。
ヒトの免疫とは病原菌を攻撃することだと考えられがちだが、正確には「自己と非自己を識別し」「非自己を攻撃する」となる。前者があいまいになるのが現代病。
例えばアレルギー。アレルギー反応は免疫反応の一部で、花粉症も含まれる。免疫反応は大きく感染防御とアレルギー反応に分けられて、2つはシーソーの左右に設置されている。清潔すぎる環境で育つと感染防御のリンパ球が少なくなるため、結果的にアレルギー反応のリンパ球が顕現し、アレルギー体質となる。本来自己となるべき食事や大した害はないはずの花粉に過剰に反応してしまい、生活に支障をきたす。
自己免疫疾患についてはもう少し複雑になる。
免疫には生まれついてのものと生まれた後に身につくものがある。コロナウイルスを見ても分かるように、感染症側も進化するので、生まれた後に身に着ける免疫が人の生存にとっては重要となっている。これを適応免疫システムという。
ここで疑問なのは、未知のウイルスを攻撃する手段をどうやって用意するのか、という点だ。知らないものについてどうやって迎え撃つのだろう?ざっくり言うと、適応免疫システムは以下のステップで成り立っている。
①ランダムに大量の攻撃手段を作る②そのうち、自己を攻撃するものを取り除く③新しい外敵が入ってきた場合、たくさんある攻撃手段のうちにマッチするものが存在するので、それを増殖させて排除④排除したものを記憶し、次に来た際に素早く対応できるようにする
④のおかげで、一度かかった病気は発症しにくくなっている。衛生的になりすぎると当然④の経験がないので対応できる病気が限られているし、②と③の経験が少なすぎるので上手く働かなくなることがある。
②の不調、つまり自己と非自己を見分けられず、自分を攻撃するものを排除しきれなくなるのが自己免疫疾患。自分で生産した自己を攻撃するものを取り除くことに失敗するので、自分で自分を攻撃してしまう図となる。
なお、衛生的になったという点を具体的にすると、以下のようになる。
①インフラから家庭内まで、生活環境が整備され清潔になった
②抗生物質の投与により感染症が激減した
③食用家畜の飼料に含まれる抗生物質を、間接的に日常的に摂取している
④魚を食べなくなり、アレルギー原因物質の中和量が減った
※ここから内容の引用を含め、ネタバレ注意。
ヒトと家族のアナロジー
『くるまの娘』の家族は衛生的すぎて、現代病にかかってしまった家族だと映った。免疫機構はあくまで個人としてのヒトの話だが、家族という集団が個人で構成される以上、個人を動かす行動原理がそのまま当てはまると考えた。これが僕の家族現代病仮説だ。
くるまの娘の家族は、関係ない外部から見ればそれほど悪くない家庭に見えるのではないだろうか。特に母親が発病するまでは確実にそうだろう。
父と母、3人兄弟に主人公の「かんこ」を加えて5人家族。恐らく一軒家に車も持っており、成人した子供に譲って買い替えるだけの余裕はある。塾にもいかず父親の教えだけで皆立派な学歴を獲得している。父親は国立大を出て大企業に勤めるエリートだ。
旅行にもよく行っていた仲のいい家族。狭い空間に押し込められる車中泊も、仲の良さの象徴ともとらえることはできる。それは反面、日常でも使う空間から出ず殻にこもる姿にも見える。鉄の塊の中は安全だけれど、変化は訪れない。
ストーリーの筋としては母親の病気をきっかけに家族がゆっくりと崩壊に向かっていくが、兄はそれ以前から不満をためている。原因はもっと昔から燻っていた。
この一家に足りなかったのは、たぶん他の家族やもっと広い社会との繋がりだ。末っ子であり自分だけアルバムが残されなかった父は、他の親類との繋がりが薄い。兄は大学を中退して結婚するが、それは家を出て得られた人間関係だ。弟は虐められていた。娘のかんこは不登校気味で、親しい友人がいるでもない。病気の母は言わずもがなだが、それは病気になる以前からの事象であったことがうかがえる。
綺麗で、孤立できる家族
孤独死なんて言葉で飾られる個人の孤立が叫ばれて久しいが、個人の集合たる家族自体も孤立しているのではないか。
作中では、家族が一蓮托生であることが繰り返し示唆される。
“あのときひとつわかったのは、もし外部の力が働いたとしても、自分はこの家から保護されたいわけではないということだった。かんこもまた、この地獄を巻き起こす一員だ”
父が子ども3人を自分の教育だけで立派な学校に合格させたのは素晴らしいことだ。他に頼らなくてもよいだけの経済力、学力、時間がそろってなされた綺麗な環境。しかし、それによって子どもも大人もすべてが家庭の内部に縛られてしまった。外との交流が極限まで絞られた家庭。
その機能不全は、衛生仮説で免疫が育たなかったヒトと似ている。構成員個人も、集団としての家族そのものも、汚い外の環境から隔絶されすぎて、どこに自分の力を向けるべきか分からなくなってしまった。きっと、どれが自分自身かすらも。それは家族が形成された初期の段階で身に着けるべき、家族としての力の基礎であるのに。
行き場の失った力は、時に父から子供への暴力として発散される。母の暴発も、病気によるものだけではないだろう。
親の教育は祖父母から受け継がれたいわば遺伝的なものだが、それをそのまま子供に伝えるだけでは何も変わらない。家庭の外では、時代がなにもかを変えていっている。いずれ社会で生きるには、家族も構成員も生まれた時から外に出て、時には病気をして何を大切にすべきかを学んでいかなければいけなかった。
“地獄の本質は、続くこと、そのものだ。終わらないもの。繰り返されるもの。何かが、変わらなければならなかった。”
農場など細菌の多い環境で育った子供は花粉症やクローン病になりにくいと言われる。外との関わりが多かったからこそ、自己がわかる。しかし、すでに育ってしまった成人がもう一度子供時代をやり直すことはできない。
父は、恐らくもう変われない。娘は間に合うだろうか。
実は、後天的にでも現代病を無理やり抑える手段がある。それは「寄生虫を体内に入れる」ことだ。大きな外敵が入ることで免疫機構の気がそちらにそれることがおおざっぱな理由。
終盤、かんこが車でしか過ごせなくなったことは家族にとって衝撃であり、父や母の激情や病状は一見おさまっているように見える。
しかし、寄生虫はいつか体内からいなくなるその場しのぎの劇薬でしかない。かんこもいつかは車から出ざるを得なくなる。自分の地獄のはじまりに気づいた父と、それを見た娘。そして家族。たとえ変わろうという意思があったとしても、育まれるはずの時期に育てられなかったシステムを、今から取り返すことはできるのだろうか。
もしかすると、これは時代や政治や進化で消えていく問題かもしれない。自己免疫疾患が投資と研究によって、新薬で後天的に解決されるようになるかもしれないように。
“いや、もしかすると、何らかの制度と自分の苦しみとはつながっているのかもしれないし、遠い未来、いくらか改善されることもあるのかもしれない。だがすべてが遅かった。何もかも遅かった。人が傷つく速度には、芸術も政治もなにもかも追いつかない。”
この物語の家族が分厚い氷を破ることができるかどうか、それは読者の想像にゆだねられている。
そして、今まさに軋轢の渦中にある現実の家族は、人は、どうだろうか。
参考文献:
『くるまの娘』宇佐見りん 『文藝』2022 春季号 河出書房新社
『免疫・感染生物学』小安重夫ほか 岩波書店
『寄生虫が自己免疫疾患の発症を抑える仕組みを解明―1型糖尿病の予防・治療に新たな光―』国立研究開発法人日本医療研究開発機構
https://www.amed.go.jp/news/release_20200422.html
『寄生虫なき病』モイセズ・ベラスケス=マノフ 文藝春秋