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フジテレビと週刊文春の大炎上から見る、SNSでの「正義の暴走」への違和感の正体

「正義」が何かわからない。

最近の世界は些細なことで「炎上」しがちだ。
道徳的に問題がある行動をした企業や個人に謝罪を求め、発言を撤回させ、活動停止に追い込む。

間違った行動をした人を攻め立て、暴言を吐きかけるのは正義なのか?
彼らが武器として手にしている正義とは何なのか?

そして僕から見て、なぜ彼らの行動に違和感を覚えるのか?
しかし、彼らが振るう正義が完全に間違っているとも思えない。

そもそも「正義」とは何なのだろうか?


■それで正義を語れんの?

「正義」を巡る理論は非常に奥が深い。

その奥が深い世界から考えると、「人が嫌がることはやめよう」というのは悪い意味で小学校レベルの議論だが、SNS上ではなぜかこれがまかり通っている。
もちろん「人が嫌がることはやめよう」は完全に間違っているわけではないが、社会はそんなに単純なものではないのだ。

一言で「人が嫌がること」といっても、この世界には80億人以上の人間がいて7000個以上の言語があり無数の価値観がある中で、道徳規範がたった一つに統一されている訳がない。
実際、SNS上には「人が嫌がることをやめよう」と言っている人と同じくらいかあるいはそれ以上に「人が嫌がること」をしている人で溢れている
それはなぜだろうか?

想像してみてほしい。
小学校レベルの算数の知識しかない人が「線形代数が~」「微分積分が~」「プログラミングが~」「統計学的には~」などと語れるだろうか?

それと同様に、小学校レベルの道徳の知識しかないのに「正義が~」「平等が~」「日本人の価値観が~」「国際的には~」などと語ることなどできない

もちろん、正義論や政治哲学、思想史などを専門にしている人からは痛烈なツッコミが入るかもしれないが、自分なりに小学校レベルは脱せるくらいには少し勉強したのでそれをまとめていこうと思う。

■正義って3種類あんねん

正義には3種類ある。
一言に「正義」といっても、3種類のうち別の正義の話をしていて話が噛み合わないとしたら、正義を巡って口論になるのも納得である。

人が何かを正義だと判断するとき、それはどのような判断基準によって行われるのか。

それは「平等、自由、宗教」の3つだ。
この3つの感覚はチンパンジーも所持していることが実験によってわかっており、生物にとってプリミティブ(原始的)な感覚だといえる。

平等:人間を差別せず、平等に扱うこと
自由:それぞれが自由に生きる権利を尊重すること
宗教:宗教あるいは伝統的な価値観に基づいて行動すること

平等:2匹のチンパンジーを檻に入れ、一方にはブドウを、もう一方にはキュウリを与えると後者は怒る。(≒平等の概念)
自由:ボス猿であろうと、先にエサを見つけた猿に対して物乞いのポーズをする。(≒私的所有権の概念)
宗教:2匹のチンパンジーに対して1個のリンゴを与えると、始めは取り合いをして勝ったほうが食べるが、次第に一方が独占するようになる(≒ヒエラルキーの概念)

https://www.hayakawabooks.com/n/nabef5155f81a

そしてこれらの正義を追求すると、人間の思想は次のような主義に行き着く。

  1. 平等の正義
    →リベラリズム(社会の格差を最小化する)

  2. 自由の正義
    →リバタリアニズム(各個人の自由を最大化する)

  3. 宗教の正義
    →コミュニタリアニズム(共同体の平和と繁栄を最重要視する)

これは奇しくもフランス革命で掲げられた「自由」「平等」「友愛」の三色旗に象徴されている。

これらの反対が「悪」だ。
つまり、我々が「悪」と呼ぶものは以下の3種類に分類できる。

不平等:正当な理由もなく、人間を差別したり平等に扱わないこと
不自由:人間の自由に生きる権利を奪うこと
反宗教:宗教あるいは伝統的な価値観を破壊すること

●不平等

正当な理由なく特定の誰かが利益を得ていたり、あるいは損害を被っている不平等な状況は悪だ。

富を独占する資本家、限りある商品を買い占めて高く売りつける転売屋、人種や性別によって入試の結果が左右されることは「不平等」といえる。

●不自由

人は誰しも自由に生きる権利を持っている。
それを奪うことは悪だ。

漫画や映画に出てくる悪の組織はなぜ悪なのか?
それは人の命を奪ったり物を破壊することで人々の自由を奪うことにつながっているからだ。

自分の子どもの自由を奪い、進路や結婚を勝手に決める親は「毒親」と呼ばれる。

●反宗教

宗教というと日本人には馴染みがないかもしれないが、「社会の伝統的な価値観」と言い換えるとわかりやすいかもしれない。

公共交通機関で騒いだり神社の鳥居で懸垂したりする外国人に怒りを覚えること、目上の人に対して敬語を正しく使えないこと、飲み会の場でお酌をしないことは「社会の伝統的な価値観」を正義とする人からすると悪なのだ。

■正義の反対はまた別の正義

この「正義の判断基準」を知ったとき、僕の中で正義の違和感の正体が見えた気がした。
人は「自分の正義の判断基準」と異なる人の振る舞いに違和感を覚えるのだ。

正論を語ることは、しばしば「正論を武器にして他者を殴っている」「正論パンチ」などと揶揄される。
正論は正しいことのはずなのに、なぜこうも疎まれるのだろうか?

それは、「正義の反対はまた別の正義」だからだ。
以下に例を列挙するが、これらはどちらの立場が一方的に正しいというものではない。

●表現の自由 vs 差別防止

Aの正義(表現の自由を守る側):「どんな意見も自由に発信できるべきだ」
Bの正義(差別を防ぐ側):「自由を理由に他者を傷つける表現は規制すべきだ」
⇒どちらも「社会の健全性」を目指しているが、自由を優先するか、秩序を優先するかで対立する。

●企業の成長 vs 労働者の権利

Aの正義(企業側):「利益を上げるために労働時間を延ばし、効率を上げるのが正義だ」
Bの正義(労働者側):「働きすぎは健康を害し、不当な搾取だ。労働環境の改善が正義だ」
⇒どちらも「社会の発展」を願っているが、経済成長を優先するか、労働者の幸福を優先するかで衝突。

●厳しい教育 vs 個性の尊重

Aの正義(厳格な教育):「厳しい教育こそが、子どもを成功へ導く。甘やかしてはいけない」
Bの正義(個性の尊重):「個々の個性を尊重し、自由な発想を伸ばすことが大切だ」
⇒どちらも「子どもの成長」を願っているが、規律を重視するか、自由を重視するかで分かれる。

●道徳 vs 自由

多くの人にとっての正義は「道徳」なのだ。
利益が重視されるビジネスや政治の場ならともかく、日常生活においては、利益ではなく共同体の維持が最も大事なことになる。

『美味しんぼ』より

山岡さんが言っていることは彼にとっては「正義」かもしれないが、それは彼の卓越した(し過ぎた)味覚に立脚するものだ。
その正義は誰にでも通用するものではないし、この場面でそれを振りかざす必要もない。

このように、論理的な正しさよりもモラルや秩序が優先される場面はたくさんある。
道徳で動いている人たちにとってはパワハラやモラハラは許されないし、それらを助長するような人間も許してはいけない。

一方で、僕が重視している正義は「自由であること」だ。
『正義の教室』では自由主義は以下のように定義されている。

自由主義の結論はシンプルだ。
他人の権利を侵害しない人の権利は保証するが、他人の権利を侵害する人の権利は保証しない。
言い換えると、他人の自由を奪わないなら好きにしろ、奪うなら容赦しないぞ。

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・道徳主義の考え方
「不倫は絶対にダメ」
「人として良くない、道を外れている」
「一度裏切ったら二度と信用できない」
「他人の不幸の上に幸福は成り立たない」

・自由主義の考え方
「悪意を持って他人に危害を加えない限り、何をやっても自由」
「だから他人が不倫しようとその人の自由。赤の他人には何の迷惑はかけていないので」
「ただし自由を謳歌する人はその結果生じた責任を負うべき」
「つまり、その人自身と迷惑をかけた人との間で責任を取ればいい」

このように「自由」を正義とする人間と「道徳」を正義とする人間では、どちらが正しいかではなくお互いの正義や信条が違うため、議論が永遠に平行線になる

■日本人が圧倒的に足りないもの

「日本人は~」という言い方は好きではないが、それでも日本人が明らかに蔑ろにしている思想がある。
それが「自由」と「愚行権」だ。

この前アメリカでレンタカーを借りたときにこんなことがあった。
前に並んでいた人が車両の事前確認でタイヤの不備を発見し、車を変更してもらっていた。
レンタカー屋の店員は全く悪びれる様子もなく「あ、そうなの。じゃあ別の車使って〜はいこれ鍵ね」といった態度だった。

日本人の感覚からするとこれは異常だ。
「事故が起きたら危ないじゃないか!店員は謝罪しろ!そもそもなんでちゃんと整備してないんだ!」
と思う人が大半だろう。

ではどうしてそうならないのか?を考えてみた。
  ・どうやらその店員自身が車両を整備している訳ではなさそう
  ・このような不備に気付くために事前にチェックするフローになっている
  ・そもそも事故は未然に防げている
こう考えると別に店員が謝ったところで何も解決しないのでは?とすら思えてくる。

アメリカは自由の国とはいったものだが、社会生活のかなりの部分が「仕組み」と「自己責任」に任されている印象が強い。
一方、日本は社会全体で相互扶助をしているイメージだ。

「愚行権」という言葉がある。

これは、たとえ他人から見て愚かな行為や自己に不利益をもたらす行為であっても、本人が自由意思で選択する権利があるという考え方だ。

例えば
不健康な生活習慣(飲酒や喫煙など)
・リスクの高い行動
(ギャンブルやエクストリームスポーツなど)
社会的に望ましくない決定(不安定な進路や無茶な散財など)
など。

ただし愚行権にも限界はあり、以下の場合には制限されることがある。
・他者に害を及ぼす場合(例:飲酒運転)
・法律で禁止されている場合(例:違法薬物の使用)
・本人の判断能力が著しく低下している場合(例:未成年や認知症患者が不合理な契約を結ぶ)

日本にはパターナリズム(家父長制)の文化がまだ根強く残っているため、親や教師の言うことを聞くことや周りの迷惑にならないことが美徳とされ、個人の裁量が小さい。
これによって秩序や清潔さが守られている一方、他人のことまで世話を焼いたり干渉したりする「おせっかい社会」だともいえる。

もちろんこれが良い方向に働くこともあるし、自由が多いことによる弊害もないとはいえない。
ただ、「他人のことに首を突っ込みすぎていないか?」と自問自答する癖は忘れないようにしたい。

■フジテレビの大炎上

これを執筆している2025年1月時点では、中居正広さんの性加害をきっかけにフジテレビや週刊文春が大炎上している。
事件の詳細は省くが、これを正義に当て嵌めてみるとおもしろいことが浮かび上がってくる。

この事件は、正義の要素である「平等」「自由」「道徳」すべてに反しているのだ。

・平等
芸能人やテレビ局の重役はただでさえ高い給与や社会的地位を持っているにも関わらず、権力を使って性的搾取をしていた。
平社員や凡人はこのようなことはできない上に、男性の優位性を使って女性の権利を侵害しているため、これは「平等」に反している。

・自由
女子アナウンサーは「接待」を断ると自分の仕事がなくなるリスクがあったため、事実上断る「自由」がなかった。
何十年にも渡って続いてきたと考えられ、これらの件が世の中に出回らなかったことから我々の知る「自由」もなかった。

・道徳
女子アナウンサーをダシにしてお偉いさんたちへの接待が行われていたこと自体が「道徳」に反する。

フジテレビは「平等」「自由」「道徳」3つの正義全てを敵に回してしまったため、これを擁護するのは難しい。
彼らが大炎上するのは必然だったのかもしれない。

■誰もが知らぬ間に陥っている「正義中毒」

さて一方で、過剰なまでに炎上に加担することは必ずしも良いこととはいえないかもしれない。
もちろん、悪いことは悪いことだし、他人に迷惑をかける人の「愚行」を擁護するつもりはない。

ただし、僕の人生の時間をかけてまでこの件に関して責任を追求したいかと言われたら僕はしたくない。
僕にとって他に大切なことはいくらでもある。

SNSにハマる人たちは「正義中毒」になっている。

人間は芸能人の不倫や企業の不正の話が本能的に大好きだ。
前述の通り、「目には目を」というハンムラビ法典の掟はチンパンジーの社会にすら存在する。

マスメディアの世界では、もっともアクセスを稼ぐ記事が有名人の噂話と不正の話だ。

これは古今東西変わっておらず、イギリスのダイアナ妃もゴシップ誌の記者に追いかけ回された末に事故に遭ったとされている。
アンジャッシュ渡部さんは週刊文春に数百万円を払って自身の不倫記事をもみ消そうとしたが失敗した。
それも当然で、その記事の売上は4億円にも達したという。

人間はなぜこれほど正義の鉄槌に夢中になるのだろうか?

その秘密は、現代の脳科学が解き明かしている。
脳科学の実験では、裏切り者や嘘つきへの処罰が脳の快楽中枢を刺激し、ドーパミンなどの神経伝達物質が放出されることがわかっている。

人間の本能は、気持ちいい=正しいこと、不快=悪いことと解釈する。
ジャンクフードが快楽なのは栄養を摂ることでできるだけ生存確率を上げるためで、腐った食べ物が不味いのは食べたら病気になってしまうからだ。

長い進化の歴史によって、我々は基本的に気持ちいいことだけしていれば上手くいくように設計されている
ドーパミンはかつて「快楽ホルモン」と認識されていたが、現代の研究ではその本質は「もっと欲しくなる」焦燥感を煽ることだとされている。

ドラッグ依存症の人は、薬で大量のドーパミンが放出され、絶えず次のドーパミンを求め続けてしまう。
例:釈放と再逮捕を繰り返す田中聖さん

ギャンブル依存症の人は、他人のお金を盗んでまでギャンブルに没頭してしまう。
例:大谷翔平選手のお金を不正利用した水原一平通訳

SNS上での悪口でも同じことが起きているなら、これは「正義依存症」といってもいいかもしれない。

ではなぜ人間は正義を快楽と感じるのだろうか?
正義になぜ中毒性があるかは、人類がその大半を生きてきた狩猟採集時代の共同体から説明できる。

その理由は簡単で、ルール違反をした仲間に対して攻撃しない遺伝子は、淘汰され絶滅してしまったから。
数十万年の時間を生き残ったのは、「ルールに従う。ルールに違反した者は罰する。さもなくば滅びる。」という遺伝子なのだ。

名作と言われる漫画や映画だって、基本的に「秩序を破壊する悪から世界を守る正義の味方」という勧善懲悪の世界観でできている。
アンパンマンもライオンキングも鬼滅の刃もこの原則に基づいており、この価値観は古今東西変わらない。

不道徳な人間を罰すると、脳はドーパミンという報酬を与える。
ただし、相手を殴ったり直接文句を言うのではダメ。相手のほうが肉体的や知能的に優れていた場合、返り討ちに遭う危険性があるからだ。
だとしたら、自分は安全な場所から噂によって相手の評判を落とし、共同体のなかでの序列を下げる(村八分にする)ことが最適解となる。

不愉快な人間を叩く行動は生存本能として組み込まれた「正義」で、私たちの社会は「道徳警察」によって支えられている。
現代社会の大きな問題は、インターネットやSNSといったテクノロジーによって匿名でのバッシングが気軽に、かつ効率的に行われてしまうことだ。

こうしてネット上には「正義」という快楽を求めて誹謗中傷や罵詈雑言が飛び交い、地獄絵図と化している
だがそんな「中毒患者」たちにとって、バッシングの対象は芸能人でも政治家でもスポーツ選手でもなんでもかまわないのだろう。

■僕らがやっていることは「正義」か「悪」か

ではルール違反をした著名人を追い詰めることは「正義」「悪」どちらなのだろうか?

普通に考えて、誰かをいじめて自殺に追い込むことが「悪」なのは間違いない。
学校でのいじめはもちろん、恋愛リアリティショーの出演者への誹謗中傷を許せると思う人はなかなかいないだろう。

日本は法治国家であり、以下の原則に従っている。
・罪は法律によってのみ規定される(罪刑法定主義)
・刑罰を科すのは国家(裁判所)のみである(司法権の独占)

問題となるのは、今回のように法治国家が上手く処理できないような事件が起きたときだ。
逆に言うと、警察や行政が人々の納得する対処法を提示できない場合には国民感情として私的制裁が正当化される。

ここで難しいのは、個人間のすべての紛争を国家が解決できない以上、私的制裁は共同体の維持に必要不可欠だということ。
そして正義の反対はまた別の正義であり、それは常に対立するということ。

個人がインターネットによる発言権を持っている以上、このようなトラブルは永遠に起こり続けるだろう。

社会的に大きな事件に怒りを覚えたとき、それが純粋な正義感から生まれた義憤なのか、あるいはうだつの上がらない自分の人生へのいら立ちの発散先を見つけただけなのか、今一度自分の心の奥底と向き合ってみたい。


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