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「死ぬのも自由」

人身事故が週一ペースで起きる。誰かがホームから飛び降りた。その知らせに触れるのはこれで何度目のことだろう。人身事故が起きる度に、朝のホームは人で溢れかえる。皆、自分が仕事や学校に間に合うかをまず第一に心配している。

自殺のニュースが増える中で、自殺の是非が問われる機会も増えた。その度に耳にする言葉が
「死ぬのも自由」。
死ぬことも1つの権利という主張である。自殺してはいけないなんて法律はないし、そもそも法律があったとしても自殺することは誰にでも可能である。家にはだいたい包丁があるし、水も火もあるし。

このように死ぬ手段は探せばいくらでも見つかるもんだから、死の自由権を使ってやろうと思ったことがある。毎日なぜか不安でたまらなくて、何か自分でも得体の知れないものに怯えていたときのこと。誰も助けてくれないし、自分ではどうにもできない。毎日自分がどこで何をしているのか、頭で分かっているはずなのに、「私はなぜここにいるのか?何をしているのか??」と思う。しまいには「自分は誰なんだ?」とまで思う。映画や音楽でしか聞いたことの無い発言。今考えると笑えるのだが、本気で毎日そんなことを考えていた。これはいわゆる離人感というもので、自分が自分ではないような感覚。毎日目の前のことをこなすだけでもキャパオーバーという有様であった。

結局死ぬ勇気などないし、痛いのも苦しいのも嫌だから自殺なんか絶対しないのだが。
けれど毎日苦しみから逃れる方法を考えていると必ず死という選択が浮かび上がるから不思議なものである。
こうして、自分のことを考えているとすぐに死が思い浮かぶ。生きるのは辛くて楽しくないから、本当はあの世に行きたいけど自ら命を絶つのはなんだか後味が悪いし、そんな度胸があるわけでもないからいつかは死ねることを希望に生きている。

自分の命はこんな風にどこまでもいい加減に考えているのに、周りの人間には生きていて欲しいなんて思うからわがままだと思う。家族でも友達でも、軽い知り合いでも死なれたら困る。死なないでほしい。名前も顔も知らない人でも、死なないで欲しいとなぜか思う。不思議だ。生きていたら、誰しもが苦しい思いをすることは分かっているのに。
生きろなんて、なんという傲慢だ。
けれども、金持ちがあぐらをかいて、権力者が猛威を振るって、学と金の無い人間が痛い目をみて、可愛い子だけに彼氏ができて、イケメンだけがチヤホヤされるような世の中で、手を取り合う人を探すかのように、生きていて欲しいと思う。

ホームから飛び降りたあの人だって、最後の最後まで手を伸ばしていたはずだ。その手を誰も掴めなかったというだけのこと。死んで苦しみから逃れることではなく、誰かと手を取り合って生きることにも価値はあるのだと思われる。
死んだって、極楽浄土など待っていないかもしれない。天国も地獄も多分ない。死後の世界の方が現世よりも最悪かもしれない。そう思うと死のうにも死ねない。もはや死にたくない。死んで来世なんかがあってみろ。次はどうやって死ねば良いのだろうね。死んだ後も生かされるなんて、たまったもんじゃない。
仕方がないから私は1度だけの生だと思って、1度だけ死ねるように人生というものを自分の足で歩いてやろうと思い始めた。

これから何人もの人がホームから飛び降りると思うが、彼らが伸ばしている手を掴めるそこそこ立派な人間になってみたい。

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