【特別体裁】つくばナード出版会endroll寄稿『パノプティコン』川尻幸作
(日本)はどうやら人を(●)してもいいらしい。
もっとも合法的にそのようなシステムがミシェル・フーコーの言うパノプティコンのように創造されているのだこと(監獄の誕生)。
簡単に言えば、大企業や大学があって、そのシステムを妄信する限り、この日本はずっと停滞し続け、差別は解消されないし、だらだらと資本主義と既得権益を妄信する他はないということである(©マーク・フィッシャー『資本主義的リアリズム』)。
冷笑的な女性の常識があるよやゆとり世代の若老害ほどこの傾向が高い。
そろそろ私たちは現実を見ないといけない。
この国の歪みは東大医学部YouTuberベテランちこそが日本のインテリの一人であり、ミズサー木曜担当BAR店主のキュアロラン・バルトこそがこの国のインテリの等身大であることである。
この系は中々壊せるものではないのだし、実際にもはや権力を維持するために医学部へ入ってコネを作って資本主義のレースで勝つ以外に出世はあり得ない(©柄谷行人『日本近代文学の起源』)。
よって、制度上で見えない弱者は●しても構わないし、自●に誘導して構わない(©古田更一『本は破れ!』&宮台真司『崩壊は加速させよ』&木澤佐登志『加速主義入門新書』&橘玲『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』)。
この資本主義的リアリズムは存在し、その袋小路として制度で見えないゴーストワーカーな人々がSNSに溜まってゆき、外山恒一合宿の攻勢を構成した(©成田悠輔解説『ゴースト・ワーク』)。
もっとも、その外山恒一合宿に集まる人間たちも大企業のレースに負けたことをルサンチマンに思う典型的な(日本人)である(©橘玲『(日本人)』)。
ここが難しい。
冷笑的な女性も若老害なゆとり世代も外山恒一合宿に集まる弱者たちも、結局のところ、大企業的な支配側に回りたいが回れなかった、一つの大企業の裏面なのである。
ほとんどの日本人たちはだらだらと働き、だらだらと生きて、だらだらと人々を死のうとお構いなしだ。
もっとも、この非リベラルさが悪いとは思わない。
西洋的な近代化をわざわざする必要がないくらいに、(日本人)は日本人なのである。
問題は、日本でいくら頑張っても、大企業やだらだらした資本主義者たちにマジョリティ側が投票する以上、社会は一切変わらないということである。
よって、問題なのは表層にいる弱者男性たちではなくて、最も軽薄で最も詩を書くことに頭を注ぐベテランちこそが日本の批評界のマジョリティの民意を獲得していることに頭を使って理解しなければならない(ベテランち『やる気ゼロでも灘→東大理三 他力本願勉強法』)。
もっともそのベテランちの権威性、ベテランちは演技ですよ、大衆を見下してますよというその証拠に、青松輝として描いている詩集がある。結局のところ、青松輝は日本の批評の伝統にある小林秀雄→蓮實重彦→古市典寿をそのまま反復する冷笑=権威をそのまま再生産する優秀な無キャにすぎない(ただし青松輝が東大総長・蓮實やテレビタレント・古市ほど権威批評を洗練させる才能はないと思う。もっともそれは空虚な貴族における階層、クラスターの問題だが)。
大衆である以上、ここでベテランちが完璧ではないと思っても、それこそ罠で、がゆえに、筆者を含めて(日本人)である以上、抜け出せない一つの系なのだ。
この絶望的な資本主義的リアリズムから抜け出すには一体どうすればいいのだろう?
まず、日本人で生まれた以上、日本人というシステムから抜け出すことは到底不可能だ。
田舎に生まれたら、そこで負け犬、あるいは、メタバースが魅了させるドラック的なSNSスラングのドラッグを浴びせ続けて、一生田舎で工場労働者をやりながら、社会学者への愚痴を貯めてゆく他はない。
学歴が平均じゃあない人間は必要ない。
男性じゃあなければ、Ⅴtuberをやる他はない。
これがこの今際の国のルールであり、もしこの国のルールを疑おうとも、筆者を含めて到底抜け出せない日本の現像である。
ヒントとして考えないといけないのは、大学というシステムに妄信せざるおえない木澤佐登志含めた闇の自己啓発一派である。
彼らは出版の利権を牛耳りながらも、あれがこれからの論壇の1つの形になるという絶望は一重に理解しなければならない。
最も希望的な絶望はある。
現在、本屋はたくさん倒産しているという。
皮肉なことに左派的な権威は崩れることは間違いなしだ。
ようするに、ガーシーの暴露はこの国の歪みであり(©死なばもろとも)、不正はしてもいいという話ではなく、どこまでもネオリベが日本の正義であるということの証明である。
そうネオリベ的日本の現状を観測してみると、日本の権威はそう否定するものではないかもしれない。
成田悠輔『22世紀の民主主義 政治家はネコになり、選挙はアルゴリズムになる』はむしろ、大風呂敷を広げた大企業肯定論であり、政治不要論であり、厄介な経済原理主義として最低な本である。
しかし、ガーシーが政治で世の中を変えるんやとベテランち的に言い張るよりも、徹底的に経済原理しかないんだよと言い張ってしまう成田の皮肉の方がまだマシかもしれない。
ようするに、弱者は◯しても構わない。
安心してほしい。
だらだらと生活保護ぐらいはその地方にはその地方の雇用とやらがあるのだから。
こうして、人々はシステムに従属し、こうして、人々は、経済原理のアルゴリズムの中で、資本主義競争に勤しみながら既得権益の階級に従う典型的な一つの(日本人)なのだ。
もっともこの徹底した絶望の中を貫徹することで見えてくるものはあるはずだ。
少なくともキュアロラン・バルトの先にナニがあるかと言えば、ナニもない(蓮實重彦エピゴネーン、四方又田犬彦2.0)。
山上徹也を止揚する「系」の問題をむしろ再生産する幸福の科学二世の弟子ですらこの問題は抜け出せるようなものではない。
ヒントになるのは、シンギュラティ、AIが人間の知能指数を超える支配は既に進行中でその結論がメタバース、SNSというメディアの子宮に人々をぶち込むことである。
そう捉えると、大衆はベテランちに隷属し、青松輝に到達しないという悲しいジレンマ(©ぱくもと『超 陽キャ哲学』)、もし仮に青松輝に到達しえてもそこには絶望的な隷属しか待っていないのだという悲観論的観測(©古田更一『本は破れ!』)しか待っていないのかもしれない。
詩で全てをホワイト革命し、クリーン化する青松輝の濁った権威主義の本音と、皆で一緒に勉強していこうよというさながらAO・推薦入試的なベテランちの優しさは、彼の中に潜む正しい一重人格の表れである。
この一人二役は仕方がない。
メディアはマッサージであり(©マクルーハン)、technologyがヘゲモニーになる現在(©落合陽一『魔法の世紀』)、ガーシー的本音は有効性を失い、ガーシーは東谷義和を忘れた一つの異世界転生(来世!)の陽キャ哲学にすぎなかったのだ。
もっともこの悲劇は青松輝がベテランちに転生したときから継続されている一つのSNSにおける喜劇である。
このおとぎの国のアリスからどうやってアリスは出ることができるんだろう?
不可能に近い挑戦は結局のところ、(前期-押井守を忘れよう!)後期-押井守が作ったバリス&スカイ・クロラのような極めてゲーム的想像力に結びついていると観測させる。
0年代時に濱野智史という情報環境学者がアーキテクチャというものを分析した。
ミシェル・フーコーの監獄が、インターネットには至るところにあるという。
卑近な例にすれば、アーキテクチャとは規律訓練型権力ではなくて、すばらしい新世界!、冷房の温度を調整することでそのまま客を統計的にアルゴリズムで追い出すというtechnologyが人間を超越した現実のユートピアのことである(逆転オセロニアというディストピア)。
この時代に、人生は訂正できるだの陽キャが哲学になるだのをほざくクソたちは単なる権威主義者たちが自分が虐げる弱者たちを囲って、その人たちに都合の良いヒーリングを売っているにすぎない。
そのような絶望的なジレンマでねじまき式クロニカル(©村上春樹)のように集団催眠になって同性愛者のパパが娘をこさえた謎について探求するぐらいなら、いっそのこと飛び降り自殺を計った方がいいのかもしれない。
この窒息しそうになる絶望的な循環状況を予見したアニメにシリアル・エクスプレンスなんちゃらlainがある。
そのアニメの冒頭ではとある少女が自殺を遂げ、インターネットへ自我を遍在させようとする(©藍原タユ)。
このふざけた日本でその結論は果たして正しいのか?
もっとも権威の壁は人を殺すことを良しとする。
この絶望的な状況を風刺した天才に不謹慎系YouTuber坂口章がいる。
彼は言った。
人間は人間ではない。
彼は言った。
食事は食事ではない。
彼は言った。
人生は人生ではない。
その一つの幸福なエッセイがそのまま模造クリスタル&つげ義春が通った一つの地獄だったことは想像に難くない。
サブカルチャーがARTになるその一瞬の奇跡を見るのが私の夢である。
もっともその奇跡はそのまま不幸にも単なる映像美として消費されてゆくことだろう。
最後にボルヘスの短編に『バベルの図書館』という説話がある。
このバベルの図書館には無限に本があり、日夜本が製造されている。
なぜならば、猿がタイプライターを弾くように意味不明に言葉が記述されて、無限にbotのように本が製造されてゆくのだから。
だからこそ、傍線部3-アナタにあった「理想」の本は確実に「統・計・学・上・は」あるのだ。
(東大2024年問題4。傍線部3で作者はナニを言っているでしょうか?その答えを50字以上100字以内で抜き出しなさい。)。
(→イールくんの解答。訂正します。陽キャです。医学部です。)。
しかし、その本が一体どこにあるのか…、人々はその図書館を追い求めているうちに、自分が一体どこにいるのか…、そして、自分が一体だれなのか?を忘れてしまい、その図書館の中で一生ぐるぐると自分を捜して一生を終えるという。
このバベルの図書館には実は出口がない。