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近代化が生んだ差別について考える(その7) 〜経済学を疑おう(前編)〜

現代では政策を語る時に経済学の視点が欠かせないと考えられています。また、選挙に関するアンケートでは、投票の観点として経済対策がいつでも関心の第一に挙げられます。しかし、本当に経済や景気はわれわれにとって最重要なことなのでしょうか。そこには「経済学信仰」とでも呼ぶべき、間違った「思い込み」が潜んではいないでしょうか

すべてのものが「商品」になることで、経済学が生まれた

「近代化」とは、貨幣経済が社会のすべての領域へと広がること、つまり市場経済の成立と切り離せません。「近代社会」とは、農産物をはじめとして、土地や水まで、すべてのものが「商品」となり、「お金で買える(買わねばならない)」ようになった社会だからです。「近代化」とは、資本主義による支配と一体のものです。

現代のわれわれにとって、たとえば土地が売り買いされることは、あまりにも「あたり前」のことです。しかし、近世以前ではヨーロッパにおいても、日本においても、農耕を基盤とする社会においては、特別の場合を除いて、土地は手放すことのできるものではありませんでした。土地を売る人もいませんでしたし、買う人もいなかったのです。近世以前の人々にとって、土地とはそこで自分が「生きる」ことと絶対に切り離せない「もの」だったからです

古代においても現代においても、人の活動や社会の動きは、「もの」の動きとしてとらえることができます。「近代化」によって、土地を含めすべての「もの」が売り買いできる「商品」となったということは、「もの」が動く際は、必ずお金と交換されるようになったということです。つまり、売り手から買い手へと「もの」が動く時には、同時に必ずお金が逆方向に(買い手から売り手に)動くということです。それならば、「人の活動や社会の動き(つまり、あらゆる「もの」の動き)」は、すべて「お金(貨幣)」というただひとつの「もの」の動きによって説明できる」はずだという考えが生まれました。この考え方にもとづいてでき上がったのが経済学です。

お金で買えない「もの」はいくらでもある

しかし、このような考え方にはすぐに素朴な疑問がわきます。よく考えれば、現代においても、実はすべてのものが「商品」となり、「お金で買える」ようになっているわけではないからです。たとえば、ある土地について、持ち主が「どんな値段がついてもこの先祖代々の土地は絶対に人に売らない」と心を決めて、そのとおりに行動していれば、その人が生きている限りその土地は「お金」では買えない「もの」です。しかし、経済学はそのようなことは単なる例外であり、無視してよいことだと考えます。基本的に「人はお金で動く」ものであり、「1円でもお金のもうかる(ふえる)方に人は動く(利益追求)」というのが、経済学の大前提だからです。そして、後でも述べるように、この大前提がない限り、そもそも経済学は成り立たちません。

コロナ禍の中で行われた矛盾した政策

コロナ禍の中で、命を守ることの必要とともに、経済を回すことの必要が唱えられました。そのため当時、日本政府は自動車のブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むような矛盾した政策を行ないました。その典型例が、旅行や外食へと人々を誘導しようと多額の税金を注ぎ込んだ政府主導のキャンペーン(Go To トラベル、Go To Eatなど)です。このような施策には、もちろん当時から賛否両論がありました。しかし、この矛盾をはらむ施策は、矛盾したまま実施されました。「命が(コロナに感染しないことが)一番大事だ、しかし、経済が回らなければ(お金が入ってこなければ)生きていけない」そんなどうしようもない「二者択一」、「二律背反」の思いが、われわれを支配していたからです。

しかし、本当にこれは「どうしようもないこと(選びようのない二者択一、二律背反)」だったのでしょうか。わたしは、そうは思いません。

間違った「思い込み」が、二律背反をつくった

「経済が回らなければ(お金が入ってこなければ)生きていけない」とわれわれは思い込んでいます。そして、このいわば「間違った思い込み」が、解きがたい「どうしようもなさ(二律背反)」をつくり上げたのです。実際にはお金がなくても、とりあえず「もの(衣食住)」が手に入れば、人は生きていけるのです。逆にお金があっても、そのお金で「もの(たとえば、お米)」が買えなければ、人は生きていけません。人が生きるために必要なものは、お金ではありません。必要なものは、いつの時代においても「もの(衣食住)」と「ケア(養育、教育、看護、支援、介護など)」のふたつです

お金はあるのに、買うお米がない

このようなことを書くと、そんなのは屁理屈だ、現実には「もの」や「ケア」だって、お金を出さない限り今は手に入らないのだから、やっぱりお金がなければダメなんだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そう思ってしまうのはわれわれが貨幣経済(市場経済)の中に、それだけどっぷりとはまり込んでいるからです。だれでも考えればすぐにわかることですが、人は肉体を持っている以上、ものを食べなければ生きていけません。そして、お金(紙幣、硬貨、暗号資産等)を食べて生きることなど、だれにもできないのです。これが事実であることは、サイフの中にお金があっても、店の棚にお米が置いてなければ、家でご飯を食べることができないということを、多くの人が経験して実感されたはずです。

「勘違い」が、「働くことの呪い」を生む

「人が生きるにはお金が必要だ。だから、国の中でお金を回し、国の中のお金(国内総生産(GDP))をふやすことが政府の行うべきことだ」と経済学者や経済評論家は主張します。しかし、これは前提から間違っています。人が生きるために必要なものは、今述べたとおり、「もの(衣食住)」と「ケア(養育、教育、看護、支援、介護など)」であって、お金ではないからです。「近代化」以降、あらゆる「もの」と「ケア」がお金で取引きされるようになってしまったために、われわれは人が生きるには、お金が必要だと思い込んでしまいました。これが勘違いだと気づかない限り、「人が生きるにはお金が必要だ。お金を得るには、どんなにつらくても働かなければならないのだ」という「働くことの呪い」から、われわれは自由になれないのです。(「働くことの呪い」については、「近代化が生んだ差別について考える(その5) 〜どのようにして『働く』ことは『呪い』となったか(前編)〜」などをご覧ください。)

われわれに必要なことは、この経済学が人にかけた「呪い」(人が生きるには、まずお金が必要だ)から自由になることです。実は経済学は、われわれが思っている以上に無力な、そればかりか人に死をもたらす「裸の王様」にすぎません。そもそも経済学は、人の社会を「正しく」説明することなどできない代物なのです。毎日、あちこちで見たり聞いたりする経済学者や経済評論家が主張する経済予想やしかるべき政策は、それだけを聞けばもっともらしく聞こえますが、ひとりひとりが言っていることはあまりにまちまちで、矛盾し合っています。結果として、自分の予想通りになった者は自分の見通しの「正しさ」を誇り、間違った者たちはあれこれ予想外の要因が入ったから、予想通りの結果にならなかったのだと言い訳します。つまりは所詮、彼らの予想は、当たり馬券の予想と本質的にはたいして違いのないものなのです。

力学でも「正確な」予測はできない

いや、そんなことはない。学問である以上、経済学がそんな無力なものであるはずはないと、思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、学問というものが、複雑、あいまいな現実のできごと(事象)に対して、結構無力であることは経済学に限りません。近代化の中で生まれた学問の中で、もっとも信頼されている自然科学、とりわけその代表である力学も例外ではありません。

さまざまな物体の動きなどは、現代の最新の力学を使えばすべて予測できると思っている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、空気の動き(風)や水の動き(流れ)については、最新の力学を用いても「正確な」予測は不可能なのです。たとえば、建ち並んだビルに空気の流れが与える影響や、船に水の動きが与える影響について考える場合は、当然、流体力学を使います。しかし、現在の最新の流体力学を使っても、建ち並んだビルに与える空気の流れの影響や、船に与える水の動きの影響については、多くの要素が複雑にからみ合うため、小型の模型等を使って実験するか、スーパーコンピュータを用いてシュミレーションをしなければなりません。そして、そこから得られた結果もあくまで予想であって、本当にそのとおりになるかどうかは、現実にビルや船を作ってみなければわかりません。

自然科学の中でもっとも「正確に」ものごとを予想できると考えられている力学でさえこうなのですから、実際の経済が、経済学者たちの予想どおりにならないことなど、なんら不思議なことではありません。だからこそ、経済学者たちの言うことは、いつもまちまちで、たとえ自分の言ったことが外れても、適当な理屈をつけて言い訳をするばかりで、だれも失敗の責任をとろうとはしないのです。つまりは、彼らの言うことは、先ほども書いたように、当たり馬券の予想と本質的にはなんら違いはないのです。

経済学は今もなお「錯覚」の上に成り立っている

このような、とても「学」とは呼べない代物である経済学が、どうして人の社会の動きを説明できるなどと「錯覚」されるようになったのでしょうか。すでに述べたように経済学は、貨幣経済が社会のすみずみにまで浸透し、このような社会(市場経済社会)であれば、「お金(貨幣)の動き」によって、社会の中の「ものの動き」がすべて説明できるという「錯覚」が生まれた時に、誕生したのです。

お金を動かすものは、なにか

ところで、お金はなぜ「動く」のでしょうか。それはもちろん人が生きるためには、衣食住に代表される「もの」が必要であり、市場経済の中では、「もの」はお金と交換でなければ手に入らないからです。つまりは、お金が「動く」のは、人が「生きようとするため」だということになります。しかし、人が「生きようとする」理由の中身になると、それはあまりに複雑であいまいなために、人が「生きようとするため」という理由によって、お金の動きを「理論」として説明することはどうやっても不可能です。

そこで、アダム・スミス以来、経済学者たちは、人が「生きようとするため」にお金が「動く」とは考えず、人が「お金を手に入れ、お金をふやそうとするため」にお金が「動く」のだと考えることにしたのです。つまり、お金を動かすのは、人の中に抜き難くある「利益追求(利益欲求)」のせいだと考えることにしたのです。これによって、人間の活動や社会の動きをあらわす要素(エレメント)は、お金(貨幣)ひとつとなり、お金(貨幣)を動かす動力(エネルギー)は、人の中にある「利益追求(利益欲求)」ただひとつだということになったのです。ニュートン力学における物体と力のような関係です。これで、ようやく経済学は科学的理論の「格好」をとることができたのです。

経済学の「問題性」はどこからくるか

学問というものは、どんな学問でも実際に起きていること(現象)を、抽象化し、単純化し、単純化したものを一般化して理論化することによって成り立ちます。近世以前の世界で、経済学が生まれなかった理由は、あまりに社会が動く理由があいまいで、混とんとして、複雑な要素がからまり合っていたからです。「近代化」の過程で、貨幣経済が社会全体に行き渡り、人々の動きを、「お金(貨幣)」と人の中にある「利益追求(利益欲求)」だけで説明できそうになって、初めて経済学は誕生できたのです。

もちろん、実際には人はお金への欲求以外にも、さまざまな欲求(安全欲求、支配欲求、承認欲求など)を抱えて生きています。しかし、経済学は、そのようなお金以外のさまざまな欲求は無視します。経済学の考えからすれば、そのような一見お金と直接関係ないように見える欲求(安全欲求、支配欲求、承認欲求など)であっても、現代においてはお金なしには手に入らないものなのだから、結局、人々の動きは、お金(貨幣)と人の中にある「利益追求」だけで説明できると考えるのです。(さまざまな欲求は、せいぜい行動経済学としてすくい上げればよいということになるのです。)

もちろんすべての学問が、実際に起きていること(現象)を、抽象化し、単純化し、単純化したものを一般化し、理論化することによって成り立っている以上、このような経済学の考え方(方法論)自体は、批判されるものではありません。経済学の考え方(方法論)が抱える致命的な問題性は、理論化の過程にあるのではなく、経済学の考え方にもとづいて国家の政策が行われるところにあるのです。先ほどの力学のたとえで言えば、熱力学や流体力学を使わずに、素朴なニュートン力学だけで最速のスポーツカーを作ろうとするようなことを、平気で行っていることになります。結果として、事故が起きることはさけられません。

そのような「事故」の例が、1929年の世界大恐慌であり、1991年の日本のバブル崩壊であり、2008年に起きたアメリカ発の世界金融危機(いわゆるリーマンショック)です。いずれにも共通していることは、その事故が起きる直前までは、実は世界も日本もアメリカも、経済理論や経済政策が自らの「正しさ」を自慢できるような好景気だったことです。つまり乗っている自動車のエンジンがいい調子なので、どんどんアクセルを踏んで回転数を上げていったところ、突然カンカンと変な音がしてエンジンが動かなくなるような「事故」だったのです。

経済学が抱える「致命的な」問題

経済学の抱える致命的な問題とはなんでしょうか。人や社会の動きを、単にお金(貨幣)の動きとしてしかとらえない経済学が生み出す世界は、必然的に「弱い立場」の人たちがさらに生きづらくなり、やがては本当に「生きていかれなくなる」世界になるのです。そんな世界を必然的につくってしまうことが、経済学の抱える文字通りの「致命的な」問題点なのです

次回へ

この「致命的な」問題は、経済学の目でいくら今の資本主義社会を調べてもわかりません。では、どうすればよいのでしょうか。資本主義が今、現にやっていることを、お金(貨幣)の動きではなく、「もの」の動きから見てみればよいのです。

「もの」の動きとして見た資本主義(社会)とは、「収奪」の世界にほかなりません。資本主義社会が誇る「富」「ゆたかさ」とは、「弱い立場」の人たちや、自然や、未来からの「収奪」の成果なのです。次回は、このことを見てみたいと思います。

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