《備忘録》透明なまなざしに貫かれる人
2024年10月10日、ESさんとの対話より。〔誤解のないように断っておくと、これはあくまで私が再構成した内容であって、以下のような内容が実際に話されたわけではない。〕
はじめに
ESさんと腰を落ち着けて話をしたのは、およそ2年ぶりだった。
話をしたと言っても、今回は私が質問役に徹していたので、非対称的な対話だった。この文章は、その非対称性を補償するために書かれた。私はESさんから、近況報告という贈与を受け取った。それを私なりに再構成することによって、私自身の近況報告を返礼したい。ESさんの語りを再構成する仕方に、私の2年間が表れているはずである。
さて、本題のESさんの語りは、まるで社会学の宝石箱のような様相を呈していた。本人にしてみれば切実な苦悩なのだが、不謹慎極まりないことに、私はその苦悩の連関構造を美しいと思わざるをえなかった。しかし、私は同時に、次のようなことも考えた。
しかし、私はこのような史料に出会うと、それを論じたり分析したりすることに躊躇を覚えざるをえない。どう論じようと、私などには問題のすべてを理解することも、また語りきることもできない気がしてしまうからである。
師匠の言葉を借りたが、「理解する」ことの限界も、「語る」ことの限界も、私が人間である以上は突破することができない。だから、以下の文章は、結局は私という人間の表現型であって、ESさんの表現型ではない。すなわち、ESさんは、私がこれから述べるようなほど浅薄な存在ではない。ここに記される文章は、ESさんの複雑で曖昧な実存を、私なりの方法で純化し論理化したものである。
その具体的な方法として、ここでは〈透明なまなざし〉という概念を持ち込み、それを起点にESさんの語りを構造化する。〈透明なまなざし〉を感受し、応答し、そこから逃走を図る人間として、ESさんを描き出してみよう。
〈透明なまなざし〉を感受する:「原罪」
さきほど小熊英二の『〈日本人〉の境界』から言葉を借りたけれども、ESさんはまさに〈日本人〉の境界をさまよう存在である。あえて失礼な言い方をするなら、ESさんにとっては日本語と英語の双方が第二言語であり、アメリカでは完璧なアメリカ人になれず、日本では完璧な日本人になれないような、マージナル・パーソンとして生きている。
私はアメリカの女だから。
彼女のこの言葉は、日本社会に溶け込めないアメリカ人という「日本・対・アメリカ」の図式で解釈するのではなく、より根底的な〈社会・対・境界人〉の図式で解釈するべきだろう。前者の図式では、ある程度は対等な二者が向かい合っている。しかし、後者の図式では、権力が片方に独占されている。端的に言えば、社会の側は〈まなざし〉を向ける主体の地位を享受するのに対して、境界人の側は〈まなざし〉を向けられる客体の地位を強いられる。
サルトルが定式化し、フーコーや見田宗介が継承したように、〈まなざし〉とは、それを向けられた対象を暴力的に成型してしまう作用である。それは社会を形成する作用だが、社会において均質に分布するわけではなく、「異邦人」なり「性的マイノリティ」なり、イレギュラーな存在に〈まなざし〉は集中する。過剰で非対称な〈まなざし〉は、それが好意的であれ悪意的であれ、存在に対する本源的な暴力として作用せざるを得ない。
集中的な〈まなざし〉を受けることに慣れた人間は、多くの場合、〈まなざし〉への本能的な恐怖を自我の奥底に抱くようになる。たとえ一人でいたとしても、誰かが私を見ているのではないかという抽象的な恐怖が、意識にこびりついて離れない。それをもっとも鋭く提起している詩人が、宮沢賢治だろう。
うしろから五月のいまごろ
黒いながいオーヴアを着た
医者らしいものがやつてくる
たびたびこつちをみてゐるやうだ
それは一本みちを行くときに
ごくありふれたことなのだ
たびたびこっちを見ている医者らしい者は、〈まなざし〉におびえる宮沢賢治が作り出した幻想である。この詩以外にも、賢治の作品では「見られている」という感覚がたびたび表明される。ただ、誰に見られているのかはよく分からない。相手が具体的な人間であれば〈まなざし〉を返すこともできるが、そうではない。賢治が経験するのは、自分自身が幻想として生みだしてしまう〈透明なまなざし〉である。
うしろよりにらむものあり
うしろよりわれらをにらむ青きものあり
賢治が15歳のころに作った短歌にも、すでに〈透明なまなざし〉への恐怖が表れている。賢治をうしろからにらむ「青きもの」は、具体的なイメージをもった他者ではない。むしろ、直接的な関係性のない他者、あるいは抽象化された他者とも言うべき存在が、賢治の意識をピンどめにしてしまっている。
「見られている」という感覚、あるいは「にらまれている」という感覚は、賢治の出自に大きく由来する。賢治の家は、地域有数の裕福な商家であり、金貸しも営んでいた。金貸しの主な顧客は貧乏な小作人たちであり、賢治が農村を歩くと小作人たちは「宮沢家の御曹司」を恨みのこもった目でにらむのだった。この感覚が賢治のなかで純化され、自我にこびりついて離れなくなったとき、彼は〈透明なまなざし〉の囚人となる。
これほどまでに賢治に注目するのは、彼のメンタリティが、ESさんのそれと大きく重なっているからである。賢治は「宮沢家の御曹司」として、ESさんは「境界人」として、それぞれの存在を暴力的に成型する〈まなざし〉を受け続けた。そうしてESさんも、やがて〈透明なまなざし〉の囚人となる。直接的な関係性の外からの声が(それはもちろん自分で作り出した幻想にすぎないのだが)、いつでも脳裏にこだまして、自己の存在の原罪性を糾弾する。
自分はこんなに豊かな暮らしを享受しているのに。
これはそのまま、賢治の実感でもあっただろう。世界には恵まれない人々がこれほどまでにたくさん生きている。それなのに、自分はのうのうと豊かで安全な暮らしを享受している。「お前にその資格はあるのか」という〈透明なまなざし〉が、ESさんを縛り上げる。ESさんを糾弾する具体的な他者がいるのではなく、彼女自身が〈透明なまなざし〉を自己に突き立ててしまうのだ。これは、境界人として生きたことによって強いられた体質だと思われる。
〈透明なまなざし〉の向こうに現れるのは、人間だけとは限らない。たとえば、ESさんが動物の肉を食べようとするならば、その動物が恨みのこもった目で、あるいは諦めたような無念の目でこちらをにらむ。もちろん、彼女がその動物と直接的な関係性をもっているわけではないので、その〈まなざし〉は幻想に過ぎない。しかし、それが幻想だとしても、彼女が感受する痛みは本物である。むしろ、〈透明なまなざし〉の向こう側が抽象化された概念としての「動物」へと投影されるがゆえに、決して風化することのない痛みを永遠に背負うことになる。
彼女の並外れた共感能力は、あらゆる場面で暴走的に作動して、自分が生きていることの原罪性をどうしようもなく浮き彫りにしてしまう。もちろん、生きていることの原罪性は彼女に特有のものではなく、先進諸国の中流層以上であればすべての人間に論理的には共通するはずのものではあるが、ふつうは、それを意識化せずに生活しているのである。しかし、彼女の場合には、抽象化された他者の〈まなざし〉を自分に突き立てるという体質が、それを許さない。
原罪を背負う彼女は、贖罪へと走る。
(それは、宮沢賢治も同様であった。)
〈透明なまなざし〉に応答する:「贖罪」
ESさんは肉を食べない。それは賢治も同様であった。賢治は「ビジテリアン大祭」という詩のなかで自身の立場を以下のように書いているが、ESさんもこれに全面的に賛同するだろう。
同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、恰度仏教の中でのように、あらゆる動物はみな生命を惜しむこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとこう云う思想なのであります。
このような生き方は、〈透明なまなざし〉に対する応答として位置づけることができる。自己の存在の原罪性が、抽象的な「動物」に投影されるならば、「動物」の不殺生に帰結するのは当然だろう。植物についてはどうなのか、植物も生物ではないか、という不躾な疑問が生じるかもしれないが、それについては次のように答えておこう。生物であるかどうかは問題ではないのだ。それが〈まなざし〉をこちらに向けることができるか、そして、人間的な感情を投影することができるか、ということが問題なのである。だとするならば、基本的には「動物」の殺生が問題化されることにも納得できる。
しかし、肉を食べないということはまだ消極的な贖罪の形式に過ぎない。それは他者の生命をすてない、という段階にとどまる。それよりも遥かに積極的な贖罪の形式として、他者の生命のために自己の生命をすてる、という行為があり得るのである。
生命の相互依存の連鎖という生物世界の事実――生命あるものがたがいにその生命を糧とし合って生きているという関係は、自己の生命の絶対化をはなれることができるかぎりは、それは植物、動物がみずからの生命によってたがいに他の生命を奪い合っている(生かし合い)の連鎖としてみることもできる。
けれどもこのことが、たんにつごうのよい自己弁明と現状肯定の論理でないということのためには、「わたし」の生命を絶対化する立場をはなれるということが、真実でなければならない。そしてこのことが〈真実〉であるか否かは、結局、じっさいに他者の生命のために自己の生命をすてるという行為によってしか、立証のしようがないのではないだろうか。賢治はこのようにこの問題を追いつめていったのではないか。あるいは少なくとも、このように直感したのではないか。
宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』では、主人公のグスコーブドリが、村の冷害を食い止めて飢饉を回避するために、気候温暖化のための火山の人為的な噴火計画の実行役に志願し、みずからの生命と引き換えに村を救う。『銀河鉄道の夜』のカムパネルラは、川に落ちた友人の生命を助けて死ぬ。
非常に興味深いことに、賢治が彼の作品のなかで自己の生命をすてるのに対して、ESさんは彼女の夢のなかで自己の生命をすてる。
悪夢ばっかり見る。〔......〕私が死ぬだけなら、まだ良い夢。そうね。私が何かをできなかったせいで、誰かが死ぬ夢は怖い。
あるとき、彼女はガザで空襲を受けている。周りには子どもたちがいて、彼女は「耳ふさげ! 口あけろ!」と叫ぶ。立て続けに轟音が響き、地面が揺れる。彼女はひときわ小さな子どもに覆いかぶさって、空襲が終わるのを必死で祈る。
あるとき、彼女は中世ヨーロッパの修道院にいる。そこで、修道女の一人が貞操を破ったとの疑いをかけられ、「魔女狩り」に遭う。彼女は、その修道女を助けて一緒に逃げるが、修道院から逃げ出した修道女たちに行く当てがあるはずもなく、森を彷徨い歩く。
しかし、結局のところ、彼女の贖罪は貫徹されることがない。肉を食べないという消極的な贖罪は、それが個人的な営みにとどまるかぎりにおいて、恨めしい目をした「動物」の幻想を払底することができない。他者の生命のために自己の生命をすてるという積極的な贖罪についても、それが夢のなかの出来事にとどまるかぎりにおいて、〈透明なまなざし〉を生み出してしまう現実的な基盤を変革することができない。
そもそも、〈透明なまなざし〉を成立させているのは、地球規模にわたる不平等の重層構造である。おおまかに表現するのであれば、第一水準としての「人間・対・人間以外の全動物」の不平等、第二水準としての「先進諸国・対・先進諸国以外の全世界」の不平等、そして第三水準としての「中上流階級・対・中上流階級以外の全人間」の不平等が、それぞれの切実さをともなって、彼女に「お前がのうのうと生きる資格はどこにある?」と抗議文を突き付ける。だからこそ彼女は存在の原罪性に苛まれていたのであり、しかし、たとえ現実基盤における贖罪を試みたとしても、〈透明なまなざし〉の向こうには具体的な他者ではなく抽象的な他者が措定されているため、むしろ自己の無力を痛感する以外の結果はもたらされないのである。
このように、贖罪は初めから失敗することを運命づけられていた。ここで彼女は、宮沢賢治と道を分かつ。賢治が、自我を世界に解放する方向へと向かったのに対して、ESさんは、自我に籠城することで〈透明なまなざし〉からの逃走を図る。
〈透明なまなざし〉から逃走する:「籠城」
ふとしたときに、彼女は〈透明なまなざし〉に襲われてしまう。だとするならば、「ふとしたとき」を予め排除してしまえばよい。そのために彼女は、音楽や映画、マンガ、ニュース、スタンドアップコメディといった多種多様なコンテンツを摂取し続ける。あるいは、それらの代替としての仕事を欲する。何もしていない時間を、彼女は恐怖するのである。
人はサリエンシー〔精神医学用語:「精神的刺激」の意〕を避ける方向に向かって生きており、サリエンシーに出会った場合には何とかしてそれに慣れようとする。だが、この慣れの作業は当然ながらコンプリートされない。いくつかのサリエンシーは、その強度ゆえに十分な慣れの作業を経ることなく、痛む記憶として心身に沈殿する。普段、人はそれを意識の覚醒によって抑えつけている。
さて、人はサリエンシーを避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した、安静な状態、つまり、何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下してDMN〔脳生理学用語:安静時に作動する脳回路、「Default Mode Network」の意〕が起動する。すると、確かに、周囲にはサリエンシーがないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体ではないだろうか。絶えざる刺激には耐えられないのに、刺激がないことにも耐えられないのは、外側のサリエンシーが消えると、痛む記憶が内側からサリエンシーとして人を悩ませるからではないか。
これは一見、合理的な解決策に見える。高度情報化社会だからこそ成立するコンテンツ産業を利用して、彼女は自我に籠城する。つねにコンテンツに〈まなざし〉を向けてサリエンシーを受け続けることによって、自我に〈まなざし〉を向ける抽象的な他者を意識の彼方に追いやる。
しかし、これには深刻な副作用がともなう。それこそが、まさに彼女を悩ます「不眠」の症状である。
ベッドに横になると〈透明なまなざし〉に襲われてしまう彼女にとって、望めるのは疲れ切ったことによる寝落ちだけである。しかし、たとえ幸運に寝落ちできたとしても、彼女を待つのは悪夢である。悪夢の駆動力になっているのはおそらく贖罪願望だが、悪夢の素材になるのは起きているときに摂取したコンテンツである。ガザの空襲を報じるニュースを見ながら寝落ちしたときに、前述の悪夢を見たそうだ。
結びにかえて
精神分析では、基本的に「抑圧されたものの回帰」という考え方をする。これに従えば、彼女の場合は、抑圧された〈透明なまなざし〉が「不眠」という身体的な症状となって回帰していると解釈できる。
しかし、さらに本源的には、〈社会・対・境界人〉という図式において一方的に〈まなざし〉を向けられることの恐怖を抑圧することによって、〈透明なまなざし〉を生み出していることは前述したとおりである。すなわち、予め「社会」から疎外された存在として彼女は生きていたのであり、そこから二段階の抑圧と回帰を経て、彼女は「不眠」に悩まされているのである。
さて、ここまで読んだあなたは、ここまで書いた私とともに、次のことを思い出す必要がある。この文章は、ESさんの複雑で曖昧な実存を、私なりの方法で純化し論理化したものに過ぎない。確かに、この文章はESさんについてのナラティブの一つではあるが、それが支配的なナラティブである必要はないし、たとえ支配的なナラティブだとしても、それは彼女によって乗り越えられるべきナラティブである。
私は、ESさんのすべてを理解したわけではないし、すべてを書き切ったわけでもない。むしろ、ESさんの語りに私自身の世界観を投影することによって、彼女について書いたつもりで私自身について書いていた、と言ったほうが適切かもしれない。
ひとえに、私を信頼してくれたESさんに感謝を申し上げる。
ESさんから感想をいただいた。
肉はね、実はもう諦めて食べてるの。
なるほど、2年間で私が変化したように、彼女もまた変化したようだ。しかし面白いのは(面白いと言うと不謹慎極まりないが)、彼女が「諦めて」肉を食べているという事実である。肉を食べるという、生物としての人間からしてみれば当然の営為が、彼女においては痛みを飲み下したうえでの営為として経験されることに、私はむしろ次のような原始共同体との感覚との類似を発見する。
ドン・ファン〔メキシコ・インディオの老人〕はカスタネダ〔若い文化人類学者〕に、ウズラの習性にのっとった巧妙なワナの作り方をおしえる。日がくれるまでに首尾よく五羽をつかまえる。食べるだんになると、「わしらには二羽で十分だ」といって、残りの三羽を放してやる。そしてウズラの焼き方をおしえてくれる。カスタネダは以前祖父がやっていたように、灌木を切って並べてバーベキュー・ピットを作ろうとする。しかしドン・ファンは、もうウズラを傷つけたのだからこれ以上灌木を傷つけることはない、といってふつうのローストにする。
食べおわってからカスタネダが、もし自分にまかせていたら五羽とも料理していただろうし、自分のバーベキューの方がドン・ファンのローストよりもずっとおいしかっただろうという。「きっとな」とドン・ファンは答える。「だが、もしそうしてしまっていたら、灌木も、ウズラも、まわり中のものがみんな、わしらに攻撃を開始しただろう。
もう一つは、私にとって嬉しい感想だった。
宮沢賢治の話したっけ?笑
私は、ESさんの語りを分析していくなかで、宮沢賢治の人生や作品との構造的な類似性を発見した。そしてやはり、彼女の一番好きな作家は宮沢賢治だと言う。私の分析が的を外していなかったようで、ひとつ安堵した。
最後に、彼女の映画趣味について補足しておこう。本文中では、サリエンシーを摂取するためのコンテンツとして「映画」を位置づけているが、彼女にとっての映画はもっと重い実存的な意味を含むものである。誰かのために死ぬこと、そして、誰かのために生きることの凄まじさと美しさを、彼女は映画のなかに見てとる。つまり、「生きる」や「死ぬ」へのヴィヴィッドな感覚に支えられているのが、彼女の映画鑑賞という趣味であって、それは大衆消費社会となった日本社会のマジョリティがすでに失ってしまった感覚である。おそらく大衆消費社会に迎合するような映画では、彼女の渇望を満たすことができない。