日記:プラトン著『ティマイオス』は読み始めですが自然哲学、非唯物論科学観的に重要な本
今朝は、夢を見ていたのは確かですが、ストーリーを把握することができませんでした。複数のストーリーが同時に進行しているようで、覚えていることは困難でした。とりあえず、日記にして最近の状況をメモしておきたいと思います。
最近、朝の通勤電車の中で立っていても眠いことが多いですが、今日は、あまり眠くはなりませんでした。
一足飛びにシェリング以後の最近の自然哲学を学ぼうとしていてグラントの『シェリング以後の自然哲学』を読もうとしたところ、知らないことがあまりに多すぎることが分かり、マーマンの『思弁的実在論』に行ったのですがこれも苦しいので、シェリングの著作を直接読みたくなり、岩波文庫で『学問論』というのが出ていたので入手しました。題名からすると、お説教でもされるのかと思ったのですがそんなことはなくて、哲学という学問をプロとしてどのように進めていくかということが書いてある本でした。と、読んだみたいに書いてしまいましたが、まだ途中です。
何か納得感がないのは、プラトンを起点として考えようとしているのに、プラトンは『饗宴』くらいしか読んだことがなく、あとは、解説書を頼りにしていたからだと思いました。じゃあ、今から可能な本を全部読んでから次のステップに行くかというのも現実的ではないと思っていて、解説書を正当化していたわけですが、極めて最近になって、講談社学術文庫から『ティマイオス』が出版されたのが分かり、文庫本なので予算的にも許されると考えて、『ティマイオス』も入手しました。結局、『学問論』と『ティマイオス』の両方を読む事になりました。シェリングも『ティマイオス』を参照していたということです。
ただ、この2つは主として電車学習でやっているのですが、しかしながら、電車の中は眠いこともあり、眠気覚ましにSNSを見たりすると、読書スピードは著しく遅くなってしまいます。
『ティマイオス』には、自然学に関して多くが述べられていることなのですが、読み始めて裏切らない内容になっていました。ここで、ちゃんと説明することはできませんが、イデアについての話もバッチリ出てきます。イデアは見ることができないものとされて書いてあり、(ちゃんとあとで読みたいと思いますが)イデアは神よりも上位にあるように思いました。解説書レベルで、キリスト教の中で新プラトン主義などとして発展していくわけですが、その中でイデアが神としての位置付けになったのかなと勝手に思ったりしていました。が、どうも違うようです。
ということで、この記事は日記なので内容はありませんが、とりあえず、現状の取り組みをメモする程度のことはできる様になったと思います。